Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

表現のなすこと

まぁ、こちらのエントリのコメント欄の議論がらみの話なんだけど。

日々あちこちのブログで生産され続けている「水からの伝言」関連の言説の多くが、(美しい言葉の生み出す)美しい水の結晶による"感動"と、(醜い言葉の生み出す)醜い結晶による"衝撃"について語っている。まぁ多くの場合画像の転載付きで(このあたりで見れば実例はどっさり)。

でも、結晶の写真を見ることから生じる"衝撃"ってのは、ネガティブなものなのだろうか。

こちらでも書いたように、ぼくはアートがよく分かっていない人間だ。でも、視覚から受ける衝撃、と云う話をするためには、やはりそちらから考えてみないと話が筋違いになってしまう。

フランシス・ベーコンと云う画家がいる。ぼくは美術に疎いのでよく分からないのだが、こんなニュースもあるくらいなので人気があるのだろう(ぼくはたいてい、自分の好きなものがどれくらい人気があるのか、どれくらい有名なのかを把握していない。いい歳して阿呆だ)。
多分澁澤経由で知ったので、もう20年以上昔。記憶によれば、初めて見たのはこの絵だったと思う(しかしこの画家、わりと最近まで存命だったにしてはずいぶんと充実したアーカイヴがネット上にある)。で、この絵をはじめて見たときの"衝撃"は、いまでも思い出せる。
この絵が、自分のなかにどんなふうに入ってきて、どんなふうに届いたのか。

ぼくにとって、表現と云うものはそう云うものだ。音楽も、アートも、文学も。
それがどんなふうに届くのか、響くのか、と云うこと。「美」と云う用語を使うなら、およそ鈍感なぼくのセンサーにそうやって届いたものが、ぼくにとっては美しいものだ。

心地よいとか、苦痛だとか、そう云ったことではなく。
正しいとか、誤っているとか、そう云うことではなく。
それはもう抗いがたい、陳腐な言い方を選べば「魂を奪われる」ような感覚。

無防備に発せられる「美しい」と云う形容詞がどうにも苦手なのは、ぼくのこう云った感覚に端を発するのだと思う。多くの場合その形容を被せられた対象は、ぼくにとってほんとうの意味で「美しい」ものではない。なので、その「美しさ」に立脚した言説を、そのまま受け入れることができないのだろう。

ちなみに最初に茂木健一郎を読もうと思ったのは、この辺りのことについてなんらかの示唆を得ることができるかもしれない、と期待したからだったりした。あきらかに期待の角度を間違っていたので、失望も大きかったのだろう、なんて思う。