聴くもの
mohariza6さんの音楽〜ある時代(世界)へ引きずり込む力と云うエントリに、若干艶消し気味に突っ込む。あえて「世間」カテゴリではなく。
(2/21追記:読みづらいので小泉文夫の著作へのリンクを文末に移動しました)
以前、大学時代に古代ギリシャの音楽を聴いたときのことを書いたことがある。そのときには書かなかったのだけど思ったのは、ある音楽が分かるにはその音楽なり背景なりの文脈を理解していることが前提になる、と云うこと。
古代ギリシャの音楽は、ぼくに一切の感興をもたらさなかった。おそらくそれは、なんら共有する文脈がなかったからだろう。ブルガリアン・ヴォイスをはじめて聞いたときには、まずは凄まじいショックに襲われた。それは多分、それまで自分の持っていた音楽を理解するための文脈をひっくり返された(つまり、もとの文脈に影響しうる異なった文脈にあるものだった)からだ。
ガムランを楽しむことができるのは、おそらく環太平洋文化として遠くとも共有する基盤があるからだ。ワルジナーのクロンチョンがすんなり耳に馴染むのも多分そう云うことで。クロンチョンが16世紀頃にポルトガル文化の影響下で生まれたものだ、と云う説を採れば、アマリア・ロドリゲスのうたうファドになんとなく耳馴染みを感じるのも不思議ではないかな、とか思う(おなじ頃には、日本にもポルトガル文化は流入しているはず。クロンチョンに影響しているのなら、日本の音楽にも影響の痕跡がありうる)。
店にも、そこによく流れる音楽によって、その店の雰囲気(空気)があり、それまでの会社なり、外の世界と違う世界に入りこんだように感じることがある。
その異種の世界と感じる感覚は、単に頭でつくり出しているだけのことだろうか?
多分それは、文脈の切り替わりを感じている、と云うことではないだろうか。
日本の音楽でも、「影をしたいて」、「買物ブギ」、ユーミン(荒井由美時代)の音楽を聴くと、その音楽が歌われていた(流れていた)時代背景(雰囲気)が、浮かんでくる。
それは多分、その時代に感じたことが文脈として連想されているのだと思う。自分が生きた時代でなければ、その時代に対する知識とイメージが。
実際のところ、モーツァルトを聴いて18世紀のウィーンの宮廷をイメージする、と云っても、ぼくらはそこがどんなところだったのかはほとんど知らない。自分の脳裏のイメージが正しいのかどうか、オーストリアに行ったことさえないぼくには判断のしようもない(と云うか、舞曲なんかを除けば、個人的には別に宮廷のイメージなんか湧いたりしないけれど)。
・・・音楽には、上記のように、どこか人間の心をある時代(世界)へ引きずり込む力があると思う。
それを、単に頭でつくり出している知覚反応と捉えるだけでは解決しない 何らかのその音楽が持っている<必然的に引き込むもの>のように感じる。
残念ながら、このくだりにはそう云うわけで共感できない。記憶のなかにあるある時代(世界)へ引きずり込む力
はあるかもしれない。でもそれは音楽の持つ特権的な力ではなくて。
あえて下世話な例を持ち出すと、ぼくなんかは昔親しかった女とおなじ香水のにおいを街中で嗅ぐと、強烈な力でその時代のイメージに引きずり込まれる。香水にも特有の波動があるからなのか? まさか。
「植物にやさしい声をかけたり、クラシック音楽を流し、生長を促したり、
日本酒の樽仕込みの時に、同じくクラシック音楽を流し、うまみを引き出す」 ことを記したが、音楽はまさしく、空気を震わす波動で、人間だけでなく、動植物・宇宙にも通じるパワー(波動)のような気がする。
日本酒づくりにおいて主要な役割を果たす酵母は、アルコールに弱い。日本酒はその発酵過程で、自分の生み出したアルコールによって苦しみながらも働き続ける酵母の、死へ向かう労働によって度数を上げていく(相対的にアルコールに強い酵母は使うようだけれど、そう云う酵母がアルコールに苦しまない、と云うわけではない)。こうなると、酵母にとってクラシック音楽は、自分を死の行進に向かわせる軍歌のようなものだろうか。
呑んべとしては酵母には感謝するけれど、おのれにひきかえて考えれば、そう云うパワー(波動)
を浴びるのは御免蒙りたいなぁ、とか思う。なんだかレッドショルダーマーチみたいだ。
- 作者: 小泉 文夫
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1994/06
- メディア: 単行本(ソフトカバー)