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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

青葉通の欅

この間の週末に、青葉通で欅の切り株を見た。

 仙台の東西のメイン・ストリートは北から順番に定禅寺通・広瀬通・青葉通となる(広瀬通と青葉通の間に歩行者天国が一本通っている)。ぼくはもう少し南に住んでいるので、このなかでは青葉通がいちばん馴染みぶかい。週に一度も渡らないなんてことは、多分ない。

これらのストリートはどれも実は戦後に作られたもので歴史が浅いと云えば浅い(うちの前を通っている奥州街道の方が当然ながらよほど古い)。でもこの3本のストリート、特に定禅寺通と青葉通の欅並木は、広瀬川と並んで長い間仙台を象徴してきた。

それこそ青葉の候には、この街は現実味の薄い、つくりものめいた美しさを帯びる。この時期の仙台を航空写真で見ると、まさに2本の細長い杜が街を横切っているのが確認できるだろう。
全体にアートの雰囲気を帯びた定禅寺通、街の軸としてちょっと下卑た活気を見せる広瀬通と比較して、青葉通は少し控えめでしっとりとした、いくつかの意味でクラシックな空気を纏う。それはそのエリアまでを生活空間として認識するぼくにとって、好ましいものだ。

東西に走る地下鉄をつくるために、欅は伐採される。
地下鉄は街中にひとを呼び戻し、空洞化した都市としての顔をもう一度取り戻してくれるだろう。イオングループ文化による浸食(最近は「ファスト風土」と云う言葉もあるのか)、この街の田舎化を押しとどめてくれるかもしれない。だから、不要だとは思わない。

ただ、切り株を見たときに胸に湧いた、哀惜の念、みたいなのはなんだったんだろう。
欅を擬人化している、と云うようなことじゃ、多分ない。それはこの街自身の記憶と、それに寄り添うぼく自身のちっぽけな記憶が軽く刺激された、と云うような種類のことがらだったんだと思う。

梅雨が来る前、5月に青葉通を東に向かって単車でのんびり走っているときの木漏れ日は、最高だったんだけどなぁ。