Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

祈りに似て

マイミクのNo.4560さん(と云う説明も実になんなんだけど、一回やってみたかった)が上げている言葉の当たり前の力を信じてほしいと云うエントリを読んだ。楽しい理科授業 2008年 01月号 「子供の“自然観・科学観”ゆさぶる仕掛け30」特集に絡めて書かれたもの(言及元はぼくは未読)。

これまでも主に医療の問題に絡めて、そして最初はosakaecoさんの問題提起に乗るかたちで、ここでもニセ科学に結果的に頼らざるを得ない状況にひとがなり得ること、そしてそのことをどう捉えるか、について考えてきた(ちょうどこんなエントリを書いたあたりがとば口になるのかな)。
あるひとがそれを必要とする状況に置かれた場合、を、どう考えるべきか。

「それは科学的ではない」などと斬って捨てることで、もちろん問題は解決しない。理想的にはすべてのひとがニセ科学に救いを求めたりしないだけのリテラシを持ってもらうことがいちばんなんだけれど、学校の教師さえ往々にしてそれを必要とする状況で、どうやってそこを補うのか。

悩ましい。簡単な解決策は、たぶんない。
例えばぼくにできることは、こうやって言説をボトルに入れて、ネットの海に放り込むことしかないのかもしれない。

でもそれは根本的には、やはり言葉の力を信じること、には違いがなくて。そしてそこにあるのは結局のところ、祈りのようなもの、だけなのかもしれない。

水からの伝言」で言葉や感謝の大切さを学んだ方も多いと思います。そのときの気持ちは大切にしておいてください。

ただ、その気持ちを今度は水からのメッセージではなく、自分自身の表現として誰かに伝える努力をしてほしいと僕は思います。

これは「水からの伝言」の内容が科学的事実だと誤解されている方が今現在も多数いるから"だけ"ではありません。

むしろ、もっと信じてもらいたいな、と思っています。言葉と人間の、本来の力を。
言葉には、わざわざ言霊思想やHADOなどを持ち出さなくても、元々ものすごい力を持っています。

言葉は、思いを伝えるための道具だ。けっこう使い方がむずかしかったりはするけれど、同じ機能を実現するこれ以上高性能で使い勝手のいい道具はない。そしてそれは、ひととひとのあいだにあるものだ。

ぼくはこれを読んでくれているあなたに向けて、言葉を並べる。あなたになにかが伝われば、それはすごいことだ、と思う。そこにツキを呼ぶ魔法なんかがなくても、きれいな水の結晶なんかができなくても。