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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

心に棲むもの

黒猫亭とむざうさんの娑婆気は仮名書きでと云うエントリを読んだ。畠中恵の「しゃばけ」シリーズについての論評。このシリーズについては、ミステリを基本的にあまり読まないぼくも文庫で追って読んでいたりする、と云う話はそれとして、このなかで黒猫亭さんはこのシリーズで特徴的に登場する「妖怪」たちを通して、ニセ科学について触れていらっしゃる。

そういう確認しようのないものは最初から相手にしませんよ、というのが科学の大前提であるから、科学がそれらの対象を相手にしないのは当たり前のことなのである。それで別段そういう現象や事象が在ると「信じられていること」自体に対しては一切言及していないのだから、トンデモサイドのほうが恰も科学的アプローチであるかの如く装って正統的な科学の徒に因縁を附けているわけであり、だから心霊研究だの超能力研究だのという「擬似科学」は有害なのである。

たとえば幽霊だの超能力だの異星からの宇宙船を信じるなら、「信じる」と言えば好いだけの話である。自分が無前提に在ると信じている事柄に科学のお墨付きを求めるから有害な疑似科学に騙されるのである。当たり前の日常の理屈では推し量れないものについては誰かがその実在を実証しなければ信じられない、これは普通の理性的な現代人の感じ方だが、信じられないなら信じなければ好いだけの話であって、それでも信じたいからと言って誰かに論証をせがむのは莫迦のやることである。まず十中八九まで何かの見間違えや解釈の問題にすぎない理不尽な対象の存在を信じたいのであれば、自己責任で宗教のように盲信する以外にはないのである。

だいぶ端折った引用になってしまったけれど、例えばapjさんがニセ科学の定義と判定について考えると云うエントリで挙げられているニセ科学の定義、(1)科学を装う、(2)科学でないと云う言葉の意味は、要するにこれだけの話だ。この定義の部分については、ニセ科学批判の社会的意義だの、その実効性だのと云った議論の入り込む余地はない。言葉遊び的にその部分を絡めてどうこう云おうとする向きもあるけれど、それは本来議論のレイヤーが違う。

違うレイヤーの議論を、その「違う」と云う部分を無視して行おうとすることは、意図的である、ないに関わらず議論の実効性を弱めようとする営為にほかならない。

引用が前後するけれど、

たとえば超能力研究家などという人々は、たとえば人の心を読むという超能力者が相手の微妙な仕種や生理現象や言葉尻に対して無意識の直観が働く人だというふうに説明されると無闇に反撥するが、それで何処が気に入らないのかサッパリわからない。それらの人々が存在すると主張している能力が普通の科学の規範において存在を認められただけなのに、変な波動がどうしたとか科学的に検証しようのない原理でなければ承知しない人が多いのは理解に苦しむし、それらの人々が「研究」の名の下に科学的な手法を装っているのは嗤うべき愚昧である。

と云う部分に強く同意する。科学の俎上に乗る、と云うのは基本的にそう云うことだ。

その意味で科学はひとつのツールでしかない。ひとつのツールでしかない以上、その本来の使い方でしか有効ではない。本来の使い方を否定するような方法で使用しようとすれば、それは「役に立たない」ものになる。要するに、そのような使い方では「科学」としてはなにも寄与しない。寄与していない以上、それを「科学的だ」と主張することは虚偽であり、また主張しているものは「ニセ科学」となる。
寄与しないのは、ツールの側の責任ではない。またツールの性能が劣っているから、と云うことでもない。

ほんの幕末くらいまでの日本人は妖怪や幽霊の存在を満更迷信だとは思っていなかったわけで、武家身分の高等教育を受けた大人の男性なら、「怪力乱神を語らず」の教え通り妄りに怪異の噂を真に受けて喋々したりはしなかったが、元々「怪力乱神を語らず」というのは「理屈でわからないことは語っても意味がないからつまんない無駄口を叩くな」というほどの意味で、怪力や乱神など「ない」という話ではなかったわけである。

言葉を何度も変えて書いてきたけれど、これらは科学の発達とともに「なくなった」訳でもない。いまもひとの心のなかには妖怪がかたちを変えて棲んでいると思うし(ここでは呪術的なもの、と云う言い回しで論じることが多いけれども)、それは科学の進歩とともに追放されるべきもの、でもない。

ただ、ある意味科学と云うのは、これら呪術的なものに依拠して世界を判断することに伴って生じる錯誤や不効率を回避するための手法であり、効率よく世界と向き合うためにひとが積み重ねてきた智恵の結晶だ。ひとが万能でない以上その智恵も万能ではないけれど、その有用性を否定することは、人間が歴史のなかで積み上げてきた智恵そのものを否定することにつながる。
それは傲慢なことでもあるし、危ういことでもある、と思う。

それらの「未確認飛行物体」群の中には、正体を確定し得るだけの材料が最終的に揃わなかったとか、そもそも正体を確認する必要性を認められなかったものがあるわけで、それ故に「未確認」な儘に放置されるのだから、それらの対象の正体が何であるかという言及はすべからく「空想」である。在りそうな空想かなさそうな空想かというだけの違いで、最早それは科学が扱う対象ではなくなるのである。

それ故に、「UFOは非科学的だ」というのはいろんな言葉を端折った乱暴な表現なのである。だからオレは、他人から「UFOを信じるか?」と聞かれたら「おまえ、莫迦だろう」と答えることにしている。幾らなんでも言葉吝みにも程がある(笑)。

ここで黒猫亭さんのおっしゃる言葉吝みと云う部分に、ぼくは問題の所在の一角があると思っている。
それはここで繰り返し論じている「分かりやすさ志向」や「紋切型思考」の生む問題点と同質のものだと思う。結局のところ、それは本来所与の前提とはできないものをあいまいなまま無定義で前提として語ろうとするスタンスであり、そこには意図的な、あるいは意図せざるミスティフィカシオンがしばしば生じることになる(法律用語で云えば前者は「悪意」、後者は「善意」と云う言い回しになる)。

意図的にミスティフィカシオンを生んでいればそれは詐欺だ、と云うことで片付くけれど、難しい問題になるのは後者の場合で。ここでリテラシ、とか云う議論にもなってくるのだろうけれど、この言葉も大概クリシェ的な使われ方をされる場合が増えているので、注意して使わないとまた議論の空洞化につながってしまうことになる。

ところで。
ここまで黒猫亭さんのエントリから何箇所か引用させてもらったけれど(引用の順序が元エントリの叙述とまるきり違ってしまった)、重要なのは引用部分における黒猫亭さんの論理のなかで、特別な科学的素養がないと理解できないような内容がひとつも含まれていないことだと思う。
そう、これはまさにコモンセンスの問題なのだ。

それはそれとしてぼくがミステリを読まないのは、個人的に「謎解き」と云うものにほとんど興味がないからで。ただ、ミステリと云うのは文学を成立させる手法としては非常に便利で(なにしろ謎を設定して、登場人物にその謎を追求させることでとりあえず読者に読ませるだけのストーリイはできてしまうので)、その手法を巧妙に利用した「文学」としての個別のミステリ小説には惹かれることもある。謎はどうでもいいとしても、その謎解きが文学の道具立てとして有効に活用されていれば、「よくできた小説」として楽しめる、と云う感じだったりする。
で、元エントリの論評の対象となっている「しゃばけ」シリーズについては、ある面絶対的にイノセントな存在としての妖怪たちを活躍させ、その妖怪たちの人間たちとは異なる(一面清潔な)倫理観を人間社会の諸現象に対置させていることが、池波的なシビアな町人の世界の現実をジェントルネスと好いバランスで描くことを可能にしているんじゃないかな、みたいに考えてみたりしているのだった。