Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

届いていない

nakahide1963さんの「ご飯の話」と云うエントリを読んだ。この方は小学校の先生で、バレーボールの指導もされている方だとお見受けする。

内容は、頻繁に見る「ごはん実験」を、小学校の生徒を相手に「実験した」、と云うこと。そしてそのことを、教えた生徒が中学生になっても覚えていた、と云うこと。

「『小学校時代のある先生が言っていたことです』って言ってたよ。先生のことでしょ。」
「あ〜わかんない。さっぱりわかんない。しかも,先生のクラスじゃないよ。隣のクラス。先生はごはんじゃねえ。」
「黒くなるご飯,黄色くなるご飯の話さあ。」
「・・・・・。」
「先生,私達にも話してくれたでしょ。言霊の話。」

「あ〜わかった。でも,隣の学級の子が何で知っているのかなあ?」
「詳しく言ってましたよ。『水からの伝言』の話も。」

書くまでもないと思うが、水伝系の言説ではこの「ごはん実験」は「家庭でもできる簡単な『言霊効果』の確かめ方」として登場する。

「私は以前,ごはんに言葉をかけ続ける実験をしたことがある。
ビンに入れたご飯に「ありがとう」「天使」「ばかやろう」「死ね」「悪魔」と
書いて毎日その言葉を子ども達とかけ続けた。
すると,色が変化し,においが変わった。
前の二つの言葉は黄色に変色し,こうじのにおいがした。
後ろの三つは黒く変色し,カビが生え,ふたを開けられないほどの悪臭になった。
その出来事はビデオにも収められている。
卒業式で卒業生からのメッセージにもなった。
(実物を提示して)

ここには言い古された批判点が2つほどある。お読みの方は食傷されているかもしれないけれど、列挙してみる。

まず、こうじのにおいのする黄色い変化は善で、悪臭にない変化は悪だ、と云うロジック。発酵は善で腐敗は悪だ、と云う理屈なのだけれど、このふたつは当然同じ現象で、人間の役に立つものを前者、役に立たないものを後者の名前で呼んでいるだけだ(お分かりにならない方もいらっしゃらないとは思うが、そう云う方にはもやしもん(イブニングKC (106))をお読みになることを推奨したい。面白いよぉ)。要するに「人間に不都合な存在」にとっては「ありがとう」「天使」と書いたビンのなかは生きていけないほど過酷な環境になった、と云うことで。さて、この「人間」と云うのを、生徒ひとりひとりが自分に引きつけて考えた場合に、この話の意味するところはどうなるか。

ふたつめは、「天使」はよい言葉であり、「悪魔」は悪い言葉である、と云う前提。この辺りのことは以前書いた。こう云う認識がこの学校の宗教教育上の方針であれば保護者も承知の上だと思うけれど、この方の個人的な信仰に基づく教育方針によるものだとすれば問題があると思う。

で、この2点はなにも深い学術的研鑽を踏まえなければ理解できないような難しいことじゃなくて、コモンセンスに属するものだ。この水準の指摘はぼくだけじゃなくて誰でもできるし、行われている。この方も指導者を自認するのなら、考えていてしかるべきだろう。

でも、その指摘は現実問題として届いていないのだ。
この現実を、どう考えるか。そして、どうするか。