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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

力不足(2)

katsuya_440さんの「ニセ科学批判」についてと云うエントリを読んだ。この方、以前こちらにも何度かお越しになったことのあるkatsuyaさんと同じ方なのではないかと思うのだけど、どうだろ。

ニセ科学批判(ニセ[科学批判]ではなく[ニセ科学]批判)について批判することを

ニセ科学批判批判とかいう舌を噛みそうなネーミングで呼ぶらしい。

いや、この呼び方、分かり辛くて凄く嫌なんですけど。他に適切な呼び方があれば是非誰か提唱してください。

ニセ科学批判者はどういう線引き基準を用いているのか、とか
そのコミュニティはどのように成長するのか、とか
あるいはあるニセ科学批判のレトリックはどのようなものであるか、とか
ニセ科学の蔓延は科学的リテラシーの欠如と判断するのは妥当か、とか
そういう問題群を検討することはニセ科学批判運動自体を観察対象とするが
運動参加者にとって役に立つこともあるかもしれない。

これは、凄くありがたいことだと思う。

例えばぼくはあくまで一般人で、それほどの学術的研鑽を積んでいるわけではない。社会科学的な問題意識の抱き方をしてはいるけれど、その問題意識そのものを浮き上がらせる方法として、実際に存在する言説に即して考察する以外の実効性のある方法を持たない。以前言及した論宅さんのように社会科学のテクニカルタームで楽しく放言するのが目的ではないので、必要と感じた部分をその都度勉強して補いながら、コメンテーターのみなさんのお知恵を拝借しながら、牛歩の進歩を目指すしかない。

まぁもちろんこれはひとえにぼくの頭が悪いからで、その意味でやっぱり力不足なんだと思う。だから、引用したような部分について、批判を通じて示唆をいただけるとうれしいなぁ、と思う。

ニセ科学批判批評が欠けているので
時代遅れの哲学論争のようなものが見られるのではないかとも思う。

この部分については完全に同意するものではないけれど、そう映るのならやはりそこには脆弱さがあり得る、と云うことでもあるんだろう。

科学業界の端っこの方で暮らす自分だが、
自分自身の知的誠実性を損なわないためにも
ニセ科学批判のために哲学的不誠実を犯すことはできないと思った。
そういう点からニセ科学批判から一歩引いて
ニセ科学批判」批評の方が自分にできる役割ではないかと思っている。

正直、ニセ科学批判そのものにある程度コミットしている論客(ここやkikulogなんかの常連コメンテーターのみなさん含む)を除いて、残念ながら傾聴に値する「『ニセ科学批判』批評」を見掛けたことがほとんどない(まったくない、と云うわけではない。それらには、多くの場合相応にフェアな言及をさせていただいていると思う)。katsuya_440さんには、有意義な批評を期待できればと思っています。