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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

異なること、分かり合うこと (「村田エフェンディ滞土録」梨木 香歩)

ひと/本

終章まで読み進んで、やっと気付いた。
ぼくはこの物語の対となる物語を、すでに読んでいた。

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫 な 48-1)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫 な 48-1)

  • 作者: 梨木 香歩
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2007/05
  • メディア: 文庫

対になる物語とは「家守綺譚」で、ぼくは以前にレビューも書いている。そうして、この物語の主人公、村田は、「家守綺譚」の主人公である綿貫征四郎の土耳古在住の友人として、「家守綺譚」のなかでときおり綿貫に手紙を届けている。「村田エフェンディ滞土録」の最後の部分では、綿貫が家守を勤める家に村田が訪れ、そうして「家守綺譚」の重要なレギュラーであるその家のもとの住人と会うエピソードがある。

とは云え、この物語が「家守綺譚」と対になっていると云うのは、そんなふうに世界観と時代、登場人物を共有しているから、と云うだけではない。

19世紀最後の年、トルコに留学した考古学徒の村田が滞在先で経験するもろもろのことが、この物語の主題だ。未知の土地で経験する諸々のこと、そして同じ下宿で暮らす人々との交流が、特に中心的な題材として描かれる。
文化のジャンクションとしての長い歴史を持つイスタンブール(書中の村田の云い方ではスタンブール)を背景とし、それぞれ異なった出身国の文化と信仰を持つひとびとに囲まれながら、村田はトルコでの日々を過ごす。ディクソン夫人の下宿に暮らす面々は、その持つ信仰や文化を恥じることなく自分自身の核として持ちながら、また同時に他者のそれを容れ続ける。村田を含め、互いに異教徒・まろうどとして認識し合いながら、自らの場所に立ったまま互いを気遣い、理解しようとし、心を深く交流させる。

下宿の住人は5人いるが、すべて異なった国籍を持つ。3人はキリスト教徒だが、国籍が違うので教会が違うはずだ(この辺りは細かく語られないが)。文化・文明の交差点の地で、彼らはそのことを踏まえたうえでともに暮らし、語る。けしてその相違がないかの如くにふるまうのではない。暮らしの中の端々に顔を出すその相違にゆったりと、ゆるやかに向かい合いながら、そのうえで互いに向き合い、与え合うのだ。
彼らの姿勢には、以前にぼくがおなじ著者による「春になったら苺を摘みに」と云うエッセイ集から読み取ったしなやかで柔らかく、強靭な知性のありかたと共通するものが感じ取れる。

ぼくにとって梨木香歩はもともと、女性の中にある地母神的な靭さを描く作家だった。でもこの「村田エフェンディ滞土録」の村田と「家守奇譚」の綿貫はどちらも男性だ。そして彼女の知性が女性的なジェンダーを背景とするものではないか、と云うぼくの仮説は、自分自身の眼の曇りを示しただけのものだった、と云うことになるのかもしれない。ただ、これらのどちらにも、大地に繋がるような靭さを持つ女性たちは存在する。文化と云う人間の手になる装置を経由することなく、直接自然と気脈を通じているような女性たちが。

「家守奇譚」の綿貫は家を中心とした決まった行動範囲と限られたひとびとの間で、数多くの「ひとならざるもの」と交流する。これに対して「村田エフェンディ滞土録」の村田は、極めて動的で多様性を内包した土地柄を背にして、数多くの人間と異なった存在と交流する。この点において、この2つは対をなす、と思う。村田の周りにも「ひとならざるもの」は登場するが、それらは綿貫の周りにいるものどものように調和を保つことなく、またひとびと同様それぞれの背負ったバックグラウンドの相違の中で軋轢を生じさせるのだ(しかもその文化的軋轢の処理については人間たちよりもはるかに不器用だったりする)。

百年一日の如く動かない「家守奇譚」の世界と比して、「村田エフェンディ滞土録」の世界は不思議な安定と安寧の中にあるように見えながらも、実際には時代の激動の中にある。登場人物たちが互いに与え合うことの出来た理解と信頼は、彼らの母国の間には生まれることがない。そのことは変わらない抑えた筆致の中で、あくまで村田個人に収束する悲しみとして描写される。そうして、考古学の徒である村田たちが遺物から読み取ろうとした歴史の中の暮らしと同様に、彼ら自身の営みもまた積み重なる歴史の一部であると云う認識が暗示される。

これは相互理解と云うテーマに対して、とても控えめで柔らかいアプローチを行った小説だ、と思う。その難しさと、得難さと、それゆえの愛おしさのようなものが、他の作家には出来ないようなかたちで描かれている。