Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

紋切型の力

以前にも言及させていただいた三等兵さんが、ニセ科学と「1+1≠2」と云うエントリを上げてらっしゃるのを読んだ。

実際、「ニセ科学」と「権威付けられていない科学仮説」の間に、線が引けるかと言うと、線を引かなければならないけれどかなり曖昧になってしまうと言うのが私のスタンスだ。ただ、「シャーマニズム宗教的なニセ科学」については、「動機付け」の点で線を引くのは基準のひとつかもしれない。

・ 理性的な閉塞感からの逃亡願望を誘導する。
・ 世間の空気を読んで安易な利益を示唆する。

明確に「ニセ科学」と言える種類の議論には、いつもそういう 「聞き手の側にある、安易な自己保全のための願望」 を充足するという側面が含まれる。
そういう「聞き手の逃亡」は、ある面から見れば健全でなくもないし、ある面から見ればひどく不健全だ。

ここでおっしゃっている「権威付けられていない科学仮説」は、多くの場合「ニセ科学」と云う負の価値評価を含む用語で語られることはない、と思う。よくて未科学、悪くてもトンデモと云う(愛情がこめられていないでもない)用語が使われるのではないか。

とは云え以降の定義には完全に同意で、これはぼくが「ニセ科学は自然科学だけの問題ではない」と主張している根拠と重なる。

例えば、 「1+1は2じゃない。10にも100にもなるんだ」
と言う台詞。
あまりに多くの人が使う常套句なので見過ごされがちだが、これがニセ科学の最も初歩的な形だろうと思う。

1+1=2であるのは、定義であり、揺るがない。
重力場で歪んだ空間のような非ユークリッド空間の多様体では大域的なアフィン変換が存在しないから、とか何とか屁理屈を言い出すこともできなくはないが、そういう場合には「1」や「+」という言葉を使わずに「別の言葉」を用意するのが正しい。

こういう台詞を言う人は、「1+1=2」という「常識」を暗喩として使うことで、「世間的な常識を覆せ」とかの平凡なメッセージを言いたいだけなのだ。それなら、ハジメからそう言えばいいのだが、単に「常識を覆せ」と言っても言葉にインパクトが無い。だから、発言にインパクトを持たせるために、あえて誤謬のメッセージを組み込もうとする。
(中略)
「1+1が2でない」といわれると、1という数字に自分たちの姿を重ね合わせてしまう。自分の欲求と世界の現実のギャップを持ってきて、そこに「感情移入」してしまう。だから「感情的に2であって欲しくない」という願望が、この暴論を肯定する。

ようするに 「ニセ科学的なもの」やら「陰謀世界観的なもの」 の根底に位置しているのは、受け手の願望を反映した「エンターテインメント」「パフォーマンス」としての言葉だということ。


しかもこのしかもこの「1+1は2じゃない。10にも100にもなるんだ」は、クリシェとして別の命を持ち始める。

最近ぼくは、明らかにビリーバーだと思われる方の言説を取り上げなくなって来ている。それは、それらがすべて同じクリシェの寄せ集めで書かれているからだ。準拠するのは、「人間の身体は70%が水で出来ている」と云う紋切型の言い回しだけ。それでニセ科学的言説と自分の思い入れをつないでいるだけ、と云うのがほとんど。
これを嗤うのはとても簡単なのだけれど、でもむしろ「自分の願望にぴったり来る紋切型を見つけるだけで、なんの抵抗もなくそれに寄り添ってしまう」心性をぼくは恐れる。

そして、経済と政治は「願望」によって駆動される。
政治的/経済的に、科学の存在が許容的に見られているのは、科学が技術を生み出し、技術が願望を充足してくれるから。ただそれだけのことだろう。
科学的真実は「ニュースにおけるエンターテインメント」としての価値と、具体的な「技術=世界の制御方法」を生み出す価値と、ブランド(ハッタリイメージ)としての価値くらいでしかないのが、残酷な事実だろう。

そうだとするならば、ニセ科学に足りないのは「技術=予測可能性=世界を制御する方法」だけでしかない。そして、プラセーボ効果で動けてしまう経済の世界では、そのあたりの検証能力も酷く曖昧だ。

悪貨は良貨を駆逐するの言葉どおり、ニセ科学の蔓延によって科学にはコストがかかるが、ニセ科学にはコストがかからない。3冊くらい入門書を読んで、センセーショナルなタイトルの小冊子でも書けばいいのだから。それだけで売れる。というか、むしろそういうほうが売れる。
つまるところ、進化論であろうが、IDであろうが、「経済効果」という視野の狭いオトナの観点で計るならば変わらないと言うことになりかねないのだ。

この辺り、以前稲葉振一郎教授がおっしゃっていた「社会科学はトンデモに弱い」と云うことと繋がってくるのかな、とも思う。
ただ、だからなおさら許容してはいけないし、よりいっそう社会科学的な視点からの批判の意味が大きくなるのではないか、とも思うのだけれど。