Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

街に積み重なるもの

街に矜持が成立するためにと云うエントリに、またfuku33さんから街の矜持と家元レントと云うエントリでトラックバックを頂戴してしまった。なんだか一介の散歩マニア(初めての土地でも何でも地図も持たずに散歩しちゃうぞ。それがバリでも、台北でも。そうして街の構造を把握するのだ)の戯言に本業の方がおつきあいくださってるのって、安い掛け金で配当ばりばりって感じで嬉しいやら申し訳ないやら。でも長年意識して来たテーマではあるので、思索を深めるいい機会だと考えて、もう少し続けてみる。と云ってもfuku33さんみたいに整然と論を進めるのも手に余るので、漠然と。

ただまた別のこともいま考えていて、必ずしも歴史は矜持に必要ではないな、とも思うのは、僕やpoohさんや、ブクマコメントによればid:trinhさんもそうだということですが、この三人の出身地の神戸は、歴史なんてたった百数十年で(清盛と福原京のことは置くとして)、仙台よりもよっぽど歴史が浅い、でも、なんていうか、「神戸らしさ」を貫くことのこだわりが結構ある。なんでか。

それが商売にもつながっているという成功体験がポジティヴフィードバックを起こしているということもありましょうが、つまり近年流行りの「ソフトパワー」を神戸という消費生態系は持っている。

あぁ、確かに街の矜持とスタイルが主に歴史に基づいている、と云う書き方は安直と云うか一面的ではありました。

でもこの辺、fuku33さんの云う神戸中華思想(たぶんこれおいらにもあるぞ)から発展した「港町至上主義」みたいなものがぼくにはあって。神戸だの横浜だの、港町はあちこちから短期間に異文化がどっさりと流れ込んで来て、なまの情報がどかどか蓄積されていく。流れ込んでくる異文化はそれぞれ充分な成熟を経たものなのでそれなりの強度を持っているし、それぞれの文化に対して一定以上の咀嚼力がないと街が成り立たないから、受け入れて噛み砕いてフィードバックする力をその地域全体として持たざるを得ない。そこで生まれてきて、日常の中で繰り返しやっているもんだからなんか根付いて来て、みたいなものが、短期間で矜持と云うか独自性みたいなものに発展する、と云う仕組みもある気がする。
ちなみに東京在住中はやけに横浜が好きで(落ち着くし、欲しいものはあるし)、おねえちゃんと知り合うとすぐにデートに連れ出していたような気もする。港町の空気が好きなのだなぁ。

で、実は九州はやや風土的事情が違うのではないか、とも思ったりする。
ちょっとトラックバック先のエントリにも触れられているけれど、九州はそもそも文化的な単位が物理的に狭い(そもそも県が小さいだけじゃなくて、文化単位も細切れになっている)。九州と云うあんまり広くない島の中で明らかに独自文化を張っている横綱地域が福岡・熊本・鹿児島と並んでいるうえに、それぞれの周辺に小結・関脇クラスの小スケール独自文化がどっさりある(福岡県だけで見ても、博多と筑豊と久留米は全部別)。なんかこう云う土地ってあんまりめげなくて、福岡に住んでいたときも不況で萎縮した空気はあんまりなかった。
それに(前のエントリのコメント欄でちょっと論じたけれど)、九州って日本だけどアジアに開けてる、って雰囲気が全体にある。だから、東京を中心とする意味での「日本」にはすこし距離のある感じもある(ソウルのほうが距離的にも近い訳だし)。東京中心文化とちょっと離れているので、「東京に行く」と云うことが「よそに行く」と云う感覚を強く持つ、と云う部分もあるのではないか、とも思う。その辺り、当然ながら関西は東京と距離も近いし歴史的にもより濃厚な関わりがあるし、だいいち「文化はこっちが本家」みたいな意識もあるしで、ちょっと事情が違うのではないか、と思うところもある。

ただ、仙台については、

多分それの障害になっているのは東北人の辺境的アイデンティティそのものじゃないかと思ったりする。それは日々、メディアなどを通じて埋め込まれてしまうものだから、埋め込まれると自ずと人の真似をすることが正しいと思うようになっちゃったりしないかな。

と云う指摘が結構当て嵌まってしまうような気もするなぁ。だいたいそもそも仙台が街として体裁を整え始めた頃から、すでに「文化は江戸から来るもの」だったりしただろうし。
この辺、ちょっと稿を改めよう。