Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

救う、こと

ニセ科学を信じることが、どうしても埋まらない心の隙間を埋めてくれることがある。この事実はじつは一番悩ましい部分だったりして、自分の中でまだちゃんとした答えが出ない。osakaecoさんのトンデモ嫁に関するフィールドワークと云うエントリを読んで、改めてちょっと考えた(お忙しいところ、あまり考え込まないで下さいね)。

治療者が治療される人の人格に向けられる注意の量は通常の医療とくらべものになりません。それ自体、少なくとも精神衛生にはいい影響はあるように感じます。

そう、そのこと自体が効果をもたらすことはもちろんあるはずなのだ。おそらくそれは占い師や霊能力者でも同じで、彼ら彼女らはなんらかの答えを出さなければいけない関係上必死になってその顧客の情報を(バーバル・ノンバーバル含め)集めるだろうし、その過程でなんらかの本人も気付いていないような示唆を見つけ出して伝えることで問題解決に助力することも出来るだろう(と云うか、ぼくは対面しての占いの機能はそこにあると思う。だからそう云う意味では実は占いを否定しない)。
ただ、それは科学ではないし、おそらく宗教でもない。伝統ある(その分哲学としての分厚い積み重ねを持つ)宗教はそのレベルでの「理解」を否定するだろう。

それでも。
ぎりぎりの状況にあるひとがそう云うものに縋ろうとする心理は分かるし、分かるだけに痛ましい。コットンフィリカさんがまん延するニセ科学−マイナスイオン・水の教えと云うエントリでお書きの、おかあさまの姿のように。

どんなものも、最初はそれなりに良くなったりしたが、根本的な治癒に至る事はなかった。買いだめしたものが、使いきれずにホコリをかぶっていくだけだった。

この痛ましさを、ぼくは嗤うことはできない。でも、それを信じさせた(ひょっとして善意の)ひとたちについてはどうしても憤りを感じる。

そのことをIEさんはまっすぐに、ご自分の体験としてニセ科学を批判する理由と云うエントリでお書きになっている。

ニセ医療、ニセ科学は、妥当な治療を受ける機会を逃してしまうことになりかねないものです。
そして、勧めた親類のように、こういうものを勧める人は、大抵の場合『善意』で勧めます。
善意で、相手のことを思いやって勧めて、それが原因で人が苦しみ、険悪になってしまったら、お互いにとってなんて不幸なことでしょうか。

科学が信用に足る、と考える理由は、そこに自らを疑いつねによりよいものとして更新していこうとする懐疑が常在しているからだと思う。これを「ビルトインされた誠実さ」と捉えてもいいのではないか。これは必ずしも自然科学だけではなく、社会科学にも、人文科学にも内在されている原理だ。

この「誠実さ」は、ニセ科学には存在しない。そのことに、ニセ科学を広める「善意」のひとたちは気付かない(「疑うこと」が、evilなことだと考えているから、だろう)。このことが痛ましい事態を広げていく可能性を、ぼくは許容することが出来ない。