Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

文系のパブリックイメージ

何度も書いているが、ぼくが文系を志す最初の原因となったのは、数学が出来ない、と云うことを自覚したことだ。数学が出来ない、と云うことは、合理的・論理的思考能力で劣っている、と云うことだ。
そのことに自覚はある。でもうさだblogさんの文系エセ科学の構造と云うエントリを読んで、少し凹んだ。

理系のひとたちにはよく見られる言説だ。
いや、云っている意味は分かるのだ。でも、少し弁解させて欲しい。文系の学問の領域には、「合理的に考えれば必ず答えが出るとは限らない」ものが多いのだ。扱っている事象の性格上、方法論から考えなければいけないことが多くて、結局それは「誰の肩にも乗れないから地べたに立って背伸びする」ことでしかアプローチできないことにしばしばなるのだ。

それは、理系の人間から見るといい加減に見えるのは分かる。でも、文系だからといって決して思い付きと知ったかぶりと根拠のない断言によって「信じたい物だけを信じることを当然だ、と思っている訳ではないのだ。

それにしてもこの種の言説は頻繁に目にする。理系のひとたちは口には出さなくても文系に対してこんなふうに見てるんだろうなぁ、と思うとなんとなく寂しくなる。理系水準の論理性がないと、そもそも本質的に補い合うことは難しいのかも知れない。でも、先人の論理を全面的に信頼してそれで自分の論理を補強する、と云う制度が整備されていない文系の学問のアプローチで、理系レベルの精度を得るのは大変だ、と思う。少なくとも学者でもないぼくには無理だろう。

でもぼくも、若い頃は「信じていいこと」が厳然として存在して、そのことを疑わなくてもいい「理系的思考」をうらやましく思ったりしたことはあったんだけどなぁ。そう云うことについて、理系のひとは自省したりしなくてもいいんだもんなぁ。

追記:
もちろんぼくが文系を代表することなんかできなくて、合理的思考能力の欠如はひとえにぼく自身の能力的欠陥に帰せられる事柄なんだけど。でも(それを自覚していても)同じうさだblogさんの(しかしこの方、なんてお呼びすればいいのだろうか)こんなエントリを読むと、やっぱり「そこまで云うことないじゃん」とか思う。て云うか、「こう云う言い回しで文系のことをevilだと云いたがるのが理系の方々?」みたいに逆ステレオタイプ化もしたくなってくるよなぁ、心情的には。