Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

紋切型(2)

ululunさんの「科学的根拠が無いものを信じてはならないのか」と云うエントリにある種の方々の典型的な態度をお見受けしたので、少し触れてみたい。

この世の中には科学で解き明かされないことというのは沢山あるわけです。

もちろんそう。菊地教授も田崎教授も同意するだろう。ニセ科学とは「科学で証明できない事柄を、まるで科学的根拠があるかのごとく扱う手法」なのだから。

魔法のステッキや呪文でいろんなことが叶うような能力、道具を私たちは希求しているわけで「それが科学的に証明されているか」より「利用者が期待した通りの効果があるか」が明確なポイントであり、効果の有無と科学的な証明には相関関係が無いと思うのです。

この部分、実際のところこの書きかたではアカデミズムとしての科学について述べているのか、それとも実生活上の技術について述べているのか明確ではない(おそらく書いてらっしゃる方もそこまで明確に考えてから述べているのではないと思う)。
アカデミズムと云うものの役割についてのぼく自身の見解は以前のエントリで書いたので省く。効果の有無と科学的な証明には相関関係がある場合とない場合があると思うけれど、ニセ科学は一般に「本来相関関係がないものに合理的な相関関係があるように見せかける」ものだ。

占いにせよ疑似科学にせよ「それが本当かどうか」ということに対して疑いを持つかどうかということと、実際にそれがどのような効果をもたらすかということは別の議論なのではないですかね。

もちろんそのとおり。ただし、「それが本当かどうか」と云う科学的な角度からの研究によって、「実際に効果があること」における効果の原理を見出すことができれば、同一の原理を適用することによってより効率よく同様の効果を得ることができる、または別の効果を得る方法を見出すことができる、と云う実利上のおまけも期待できる(それが本質的なことではない、とは思うけれど)。
水からの伝言」がわかりやすいので採りあげると、議論されているのは、「未だ(頭が固くて権威に寄りかかっていて一面的なものの見方しかできない現代科学と科学者たちのせいで)科学的に証明されていないが、実際には(ひとの心への十分な配慮と最先端の科学技術に対する理解がある人間には自明の)科学的なものとして存在し、説明できる『波動』その他の原理」を根拠としている部分であるし、「(表面的に)道徳的な(意味を辞書記載上的に持つ)言葉は水の美しい結晶を作る。道徳的な言葉はその言葉の使われる文脈や状況(つまりその言葉を使った人間がその言葉に込めた想い)を超越して道徳的であり、美しさは幾何学的な(見た目にわかりやすい)整合性のみで測られるものである(従って見た目が典型的に美しいもの以外は不道徳である)」と云う不寛容で容易に差別に結びつくようなロジックなのだが。

世の中は、科学で全てが証明出来る程、簡単には出来ていないと思うのですけれど、どうなのでしょう。

もちろん。どんな科学者もそんなことは絶対口にしない。それはある意味典型的に非科学的な態度だから。だから、それを一見「量子力学」や「波動」で証明できるようにミスリーディングさせるニセ科学が、まずいんじゃないの、ってことになっているわけで。

疑似科学的なものを信じる信じないも個人の自由じゃないんですかね。それじゃ駄目なんですかね。

もちろん個人の自由です。その個人ひとりに影響が留まるものであれば。
でも、教師が小学校で教えたり、数十万の(ニセ科学的な根拠しか持たない)機械を販売して稼いだり、合理的な思考に基づく結論を「所詮はひとの心のわからない奴の云うこと」と云って特に根拠もなく軽視したり、「ニセ科学的根拠」と「恫喝」を抱き合わせにしてマルチ商法で稼いだりすることは、個人の自由を逸脱すると思う。

いちばん問題なのは、このような言説を「中立的で客観的な態度」のつもりで表明すること(この方は多分そう云う意図の本にこのエントリを書いたものと推測する。多分自分の「紋切型」的態度を示そうとしているのではないだろう)だと思う。