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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

善意を計測する

少し前のエントリで取り上げさせて頂いた福耳さんの新しいエントリ、「商品の『意味』を制御する意図についての弁明」を読んで、いったい何がひっかかっていたのか少し分かった。

金銭は便利だ。すべてを推し量るための基準として使える。
金銭は分かりやすく、いろんなものの価値を示す。時給1,000円のアルバイトの労働としての価値は時給2,000円のアルバイトの半分だ。100億稼ぐ仕事術を身につけた人間には、生涯年収3億やそこいらの安サラリーマンの30倍以上の価値がある。ある国の国民のひとり当たりGDPが他の国の国民の10分の1だとすれば、その国の国民の命の値段もちょうど10分の1だ。分かりやすい。
極論を述べているように見えるかもしれない。でも、この計算が成り立った上で世界が動いているのが現実だ(いや、遠い昔とはいえ経済学部を卒業した人間のする議論としては粗雑すぎるのは確かですけど)。

善意も、正義も、計測可能だ。「誰に」「いくら」払ったかで、その人間の「善意」や「正義」の方向性や総量を評価することができる。とても分かりやすい。

でも、金銭を基準に計測しやすい「善意」や「正義」の発揮方法を準備してあげるのは、善意や正義の持ちうる意味や価値を著しく制限し、その持ちうる可能性を「誰にいくら払ったか」と云う評価の中に押し込めることになりはしないか。

商品を供給する側は時には偽善さえも制御しなければならないのではないか、場合によっては偽善さえも武器にする方法を探るべきではないか、そうでこそ偽善を飼い慣らせるのではないか、と思うのです。

一時的な戦術としては可能かもしれない。でも、それはけしてサステイナブルではない。なにしろこの戦術には、「善意」や「正義感」を抱くものたちと比較してその対象になるものが常に貧しくなくてはならない、と云うのが前提になる。

善意や正義感を満たし、快楽を得るための方法を提供する。そのことそのものが、善意や正義感の持ちうる可能性を収奪することになりはしないか。例えば貧困に喘ぐ地域に現状から脱出しうる可能性を持つ技術を教えに自ら赴くことは、金銭を基準にする限り全く価値はないのだ(少なくとも一次的には)。そうして、金銭を基準として「善意」や「正義」の供給メソッドを洗練されたかたちで提供することは、いとも簡単にこれらの行為からその価値を剥ぎ取ることに繋がる、と云う気がする。

少し前まで、例えばある地域の貧困を前提にし、それを利用して他のある地域が栄えることは、道義的に問題があると認識されていた。企業の経営者が従業員を食うや食わずの状況に置いておいて企業の利益を最大化することは、不道徳な行いであると考えられていた。でも、この状況はすべてを金銭に置き換えて計算することの「わかりやすさ」の前に完全に逆転している。いまや他国の貧困に乗じて自国の国益を維持することは称揚されるべきこととなり、従業員に対するコストを極限まで抑制して利益を上げる経営者は賞賛されるのが現実だ。誇張しているのではない。
金銭(=経済的価値)と云う基準の分かりやすさは、持ち込むだけでそのコミュニティにおける倫理や道徳の性格を変えてしまうほどの強靭さを持っているのだ。

善意や正義感や偽善をコントロールしてより有効に運営する、と云う発想は確かに魅力的だ。でも、それは善意や正義感や偽善がなし得ることの範囲を間違いなく強く規定し、抑圧すると思う。

まぁ、それが間違いなくいまぼくたちの乗り合わせている船が切ろうとしている舵の方向であるのは確かなんだろうけど。