Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

わかりやすさとニセ科学

続きもの、ってわけじゃないんだけど。
前回知人のブログにリンクを貼ってしまったので、ニセ科学を考える、って側面から少し思ったことを書いてみる。
(背景に「『水からの伝言』を授業で使う」と云うケースを置く)

結局、複雑なことは複雑なのだ。複雑なものを理解するためには、それだけの努力が必要なのだ。

いや、もちろん出来るだけあなたにわかりやすくすることはみんながしてくれます。でも、そこにはあなたにとってコストが発生してます。
a)それが単純に「あなたの代わりに考える代」として請求されていれば、それは通常の商取引。なんの問題もない。けちれば、サービスの品質が下がるだけの話。
b)そうでない場合、あなたはコストをリスクと云うかたちで支払うことになります。だまされるリスク。

いずれにせよ、「誰かに判断基準を委ねる」あるいは「誰かに判断を手伝ってもらう」ことについては、かならずコストがあるのだ。よく考えると当たり前。それは自分で「複雑なことを考える」と云う作業のコストを支払わずに、誰かに肩代わりをしてもらってることだから。
もちろんそこのコストを理解して、費用対効果から見て「誰かに手伝ってもらう」こと自体はまったく問題ない。って云うか、普通経済活動はそうやって成り立っている。ぼくもその部分から収入を得ている。

だから、もしその部分が激安、または無料だとすれば、疑うべきなのだ。その品質を。
疑うことは、自分で判断材料を集めて、考えること。そのコストをけちるのなら、だまされても文句は云えない。

もちろん、だます側に悪意がある場合は、だます側は糾弾されるべきだ。
でも、だます側に悪意があるとは限らない。ただ単に、「自分がだましているのかどうか考えるコスト」をけちって、自分の善意を信じきっているだけかもしれない。

だまされるのは悲しいことだ。でも、その意味では自己責任。けちった自分の責任。
善意の結果としてだます側に回ってしまうのも悲しいことだ。結果的にだましているのだから、動機がどうあれそれは詐欺であり、一次的には「悪」だ。
改めて考えて見なくても絶対にいい、と感じられるものは、まさにそれゆえになおさら、疑うためのコストを支払うべきなのだ。
「学生の頃にもっと勉強しておけばよかった」。

でも、だから例えば教育者には、このコストをけちることは許されない。教育者が考えるコストをけちることは、善意のだますひととだまされるひとを増やすことにつながる。
つまり、将来的に自分の負担しなかったコストをつけとして社会に回すことになる。職業倫理上、これは許されない。給料の詐取だ。

もちろん、分かりやすいから教育者、と云っただけで、これはすべての人々に求められるべき倫理なんだと思う。

ポイントなのは、この倫理の基準がいまの日本の資本主義社会では危機に瀕していること。
と云うか、ない。

もともと、資本主義には倫理的な側面はないので、倫理は他の部分に求めないと社会が成立しない。
アメリカの場合、背景にプロテスタンティズムがあるから、その倫理を資本主義と併用して社会を成立させることができる(ただし、アメリカには社会が自国で完結しない、と云うエコシステムの欠陥がある。アメリカは、非アメリカに対する莫大なコスト移転を前提にして運営されている。その部分は資本主義にもプロテスタント倫理にも抵触しないから、何をやってもいいらしい)。プロテスタンティズムで足りない部分は、足りない分だけ法律と契約をつくっておぎなおう、と云う(ある意味)健全な発想も徹底されている。

資本主義とそれに伴うルール(「自己責任」だの「勝ったもん勝ち」だの)を輸入してしまった以上、なにかしらの倫理を設定しないと、社会運用に足るだけのルールは完備されないんだろうなぁ。それは「美しい国」とか云う理解コストの激安な代物とか、自国民に思考停止を強いるための新しい教育手法なんかでカバーされるようなものではないんだろうけど。

じゃあ、どうすればいいのか。
あ、お客様。ここからは有料になりますが。(1)

(1)
こう云う商売の仕方がだんだん一般的になりつつある、気がする。