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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「わかる」ということ

ブルガリアン・ヴォイス

ブルガリアン・ヴォイス


音楽を聴くのがどうして楽しいのか、について、ちゃんと説明した論考を読んだことがない。
いや、「いろんな論考を読んだけれど納得できたことがない」という訳じゃなくて、単に読んだことがないだけだけど。

最初から、「わかる」音楽もある。いろいろ聴いて行くうちに、わかってくる音楽もある。あるミュージシャンを、もしくはジャンルを好きになるのは、それからだ。

学生時代の知人が、どこからか古代ギリシャの音楽を再現した音源を入手して来たことがある。一緒に聴いた。
まるで分からなかった。好きとか嫌いとか以前に、なんのひっかかりも手がかりも得ることが出来なかった。
どうしてなんだろう。不思議だった。

逆に、なんだかするっと分かってしまう音楽もある。
ガムランは聴いたことはあったのだけれど、音源を入手してちゃんと聴くようになったのはバリから帰って以来、ここ2年足らずくらいのものだ。でも、こんなふうになったのは、ガムランがぼくにとって「とてもよくわかる」種類の音楽だったこともまずは大きな原因としてあると思う。
改めて強調するほどのことはないと思うけれど、ここで「わかる」と云っているのは、もちろんアカデミックな意味で理解する、と云う意味ではない。と云うかそもそもそんな角度で音楽を語るのは普通に考えて無粋だ。
あ、だからあまりそう云う論考が流通してないのか。

今回掲げたブルガリア民謡も、そう云う意味では分からないままに初めて聴いたときから「分かった」音楽のひとつ。殆ど理解するためのとっかかりがないまま、ひどく感情を揺さぶられたのを覚えている(と云いつつ、数年ぶりに聴いてみたら、当時の印象よりはよほど洗練された録音であることに気付いた)。

なんだかまとまりのない作文になったので、この辺りのことはまた書くかもしれない。