読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

繋がるもの

こんな映画を見た。
つれあいが珍しく「これは見なければ」と主張したのもある。こんなことはマッスル・ショールズの映画以来だ。

yoyomasilkroad.com

なんだかOGPがちゃんと設定されていないのか、リンクがへんだな。

そもそも、国境なんてない

さて、ぼくはヨーヨー・マと云うひとがよくわかっていない。よくわかっていないとは云っても名前も知らないとか音楽を聴いたことがない、とかじゃなくて、要するにぼくは捺弦楽器と云うものに対する理解が浅くて、演奏を聴いてもそれがどれほど(ほかの音楽家と比較して、あるいは同時代の音楽的パースペクティブのなかで)すごいのかあまりよくわからない、と云うこと。
なのでぼくの持っていたイメージは、このひとの発する音の持つ包容力みたいなものと、板についたセレブリティ特有のスケール感のあるオープンハートな人柄、くらいのもので。

この映画のタイトルにもキャッチコピーにも、じつは偽りがある。べつだんぼくたち観客はヨーヨー・マと一緒にシルクロードを旅したりしないし(ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブライ・クーダーといっしょにキューバを旅するようには)、これは現代のウィ・アー・ザ・ワールドなんかではない。結果的にそのような意味合いを持ったとしても、彼のシルクロード・プロジェクトは、音楽に国境がないことを証明することを目的としたものなんかではない。

そもそも音楽に、もっと云えば文化に本来国境がないことなんて、ぼくだって先刻知っている。文化の相違と云うものは地理的・気候的なものをはじめとするさまざまな条件の違いのなかでグラデーションのように移ろうものだ。ぼくたちが異文化に触れて感じる相違は、グラデーションのなかでそれぞれが別のピークにいることから生じる、と云うだけで、彼我が完全に隔絶されているわけではない。
音楽については、楽器、と云うものに着目すれば、そのことはすぐにわかる。あるタイプの楽器が発祥の地から各地域に拡散していって、それぞれの地域で独自の進化を遂げていく様子を見れば一目瞭然だ(この映画のわりと最初のシーンでバチを使って弦を叩く楽器がでてくるけど、ぼくにはこの楽器がダルシマーなのか洋琴なのかわからなかった。同じタイプの楽器が広い地域にあるのだ)。

だから、本質的なテーマは「越境」でもない。国境と云うものがそもそもあと付けの便宜的なものなのだから。そんなものよりも、文化は深層に存在する。

音楽家の力

なによりも感じるのは、参加した音楽家たちの凄まじい力量。

イランのケマンチェ、と云う楽器は初めて目にした(ケマンチェ、と云う言葉自体は、そもそもはこのあたりで捺弦楽器を示す一般名称みたい)。最初は見た目から二胡とかルバブの類いかな、みたいに思ったけど、まったく違う。ヨーヨー・マが演奏者であるケイハンのことを「双子の兄弟」と紹介するのが完全にうなずけるような、その表現力。

中国琵琶が実際に演奏されている姿も、はじめて目にした。
ウー・マンのプレイスタイルは、さすがに完全に伝統的なものではないのだろう。それにしてもその、どのようなジャンルの音楽にも馴染んでみせ、独自のエッセンスをそこに付け加えてみせる、なんと云うか強靭な柔軟性みたいなものはほんとうに驚くばかり。映画のなかで呼ばれる「ロックスター」の称号に、まったく誇張はない。彼女なら共演相手がイラケレだろうがサイプレス・ヒルだろうがBabyMetalだろうが、まちがいなく喝采を攫ってみせるだろう。

スペインのバグパイプ奏者であるクリスティーナは、プロジェクトに(それほど大きくはなくても)ブレイクスルーをもたらす。スペインとは云ってもガリシアドーバー海峡沿いの地域であって、彼女の演奏にはいくらかケルトの薫りがする。シルクロードからは外れるけれど、文化として隔絶があるわけではない。

こう云った音楽家たちに、それぞれのスタイルに固執させることなく、それでもそのポテンシャルを存分に表出させながら、すべてをスリルと調和のある音楽に還元させる。――それを実現させているのがヨーヨー・マだ、と考えると、やっぱり凄いなぁ、とか思う。

文化のグラデーション

面白いシーンがあった。
曲のリズムを決めるのに、パーカッショニストたちが手拍子(フラメンコで云うところの、パルマ、だろうか)をそれぞれ叩いていく。それぞれのイメージするリズムは違っているのだけど、それらを重ね合わせて、ひとつの方向に定めていく。

演奏シーンはもちろんたくさんあって、どれもこれもがもっと聴いていたい、みたいに思わせるものではあったんだけど、リズム、と云う話で云えばそれはバルカンっぽかったり、トルコっぽかったり、ときにはアイルランドっぽかったり。
シルクロードの東端は日本、西端はローマ。クリスティーナ・パトの存在で、その西端はブルターニュあたりまで引き伸ばされる。そして、音楽の根幹となるリズムは、その東西に長い帯のどこかに落ち着く。なんて素敵なんだろう。

(たださすがに、現代のポピュラー音楽の大きな源流のひとつである中央アフリカのニュアンスは登場しない。それはシルクロードからは遠すぎるからね)

音楽が与えてくれるもの

この映画では、それぞれの音楽家が持つ複雑な背景も描かれる。クラシックのクラリネット奏者であり、なおかつシリアと云う地域を代表する音楽家であるキナンは、「音楽になにができるか」と云うことに悩む。

ここでいきなり個人的な話に繋げるけれども。
ぼくは6年3か月ほど前に直面した大きな災厄のなかで、音楽と云うものがどんなふうに心を満たしてくれるものなのか、と云うのを改めて実感した。文化、と云うのはそのようなものでもあるのだ。

身近な災厄のなか、ぼくのローカル、ぼくのフッドが発した音楽表現を、ふたつ挙げようと思う。

MONKEY MAJIK / Headlight


MONKEY MAJIK / Headlight(Album ver.)

GAGLE / うぶこえ


GAGLE "うぶこえ(See the light of day)"

どちらも、源流はこの国の国境の内側に生まれた音楽ではない(片方に至っては、この国以外で生まれたメンバーがうたっている)。でも、これはぼくと同じ、当事者の音楽だ。

音楽は遠い昔に生まれ、広がり、重なり合って、そうしていまここにある。