知ること、学ぶこと
飯舘村ウェブサイトのこちらのページを見た。
文面からすると、今月に入って南相馬や須賀川で起きた中学生の自殺を受けてのもの、のように見える。神奈川や埼玉で起きた、避難児童へのいじめ、ではなく。
胸の詰まる語調だけれど、その意味ではシンプルにいま起こっていることに対処しようとする文章なのだろう。
いま、起こっていること、そのことに。
だれかがどこかで、「2度の原子爆弾投下を経験したこの国の人間こそ、これらのことについての知識を持っているべきだ」と書いていたのを読んだ。2年間だけとは云え広島のこどもだったぼくはちょっと同世代一般とは事情が違うけれども、このことばに賛同する。
でも、「知らない」ひとは増えているのだと思う。ぼくはたまたま広島の被爆者に接する機会を持てたし(ぼくらの世代だと教師にも被爆者がいた)そのころの話を直接聞く場もあったけれども、そう云う体験をすることはやっぱり年々難しくなる。
でも、難しくなったからと云って、求めて得られないものではないはず。伝えようとすること、知ろうとすることはやっぱり大事なのだよなぁ、と改めて思う(その意味で、「この世界の片隅に」のような映画がひろく観られているのは、やはり素晴らしいことなんだろう、と思ったりする)。
書いてこなかったけれど、福島のこどもたちに将来こどもが産めるかどうか不安になるようなことばを伝えたおとなたちがいたことや、福島のこどもたちの「葬式デモ」をおこなったおとなたちがいたことを、ぼくは忘れていない。
彼ら、彼女らは知らなかったのか、知っていて認めなかったのか、そもそも知ろうとしなかったのか。
Alt-factsにつねにまったく意義がないとは限らない(この用語はその背景まで考えると、ちょっと取扱い注意だと云う気がする)。「真実」と云うものが一元的なものではないのも知っている。でも、Post-truthに開き直った言説は、やっぱり許容されるべきではないと思うのだ。