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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ニセ医療とサンクコスト

少し前に書いたエントリで触れた宇樹義子さんのブログで上がっていた、こんなエントリを読んだ。

decinormal.com

私はかつてニセ医学に傾倒し、脱出し、現在は反ニセ医学活動をしている。

ニセ科学に対する批判的な論陣を張る論者には、本来ニセ科学的なものを信じていたひとや、ニセ科学的なものに親和性のある資質を持つひとがそこそこ多い(ぼくもそうだ。ぼくは自分では基本的にオカルティストだと思っているし、すぐれたオカルトは適切に用いれば有用な局面が存在すると思っている。こっちで書いたような意味で)。まぁ、そうではないひともいるけれど、そう自認するひともこのへんはいったんは自問しておく価値があることだと思う。

しかし、どれだけ時間と手間とお金を注ぎ込んでも体調は良くならなかった。気のせいレベルで少しの間改善したように思えることもあったが、長い目で見ると症状はむしろ緩慢に悪化していった。生活のすべてを上記の療法に捧げながら、月の半分程度は寝込むような生活だった。
これらに費やしたお金をおおまかに計算すると、延べ数百万円である。
しばらく考え込んだ。そして自分が「引っ込みがつかなくなっていた」ことに気づいた。代替医療に一度すべてを賭けてしまった以上、ギャンブルと同じで「ここまで注ぎ込んだのだからそろそろ当たりが出るのではないか。今やめたら今まで注いできた労力がもったいない」という気持ちになってやめられなくなっていたのだと、今では思う。

お金で済んでよかったね、みたいに云うべき話じゃもちろんないけれど。
特定のメソッドに一定以上の費用と努力を費やすと、しばしばそこからの脱却をサンクコストに対する意識が邪魔してくることがある。医療に関するニセ科学がほんとうに深刻な健康被害につながる場合には、「これだけがんばったんだから」「これだけ努力を費やしたんだから」みたいな思いが背景にある場合が多いように思う(似たような意識の働きは、医療に関するニセ科学を知人に勧めたり、家族に押し付けたりするケースにもあるように考える)。

この方の場合は、脱却の契機は継続してその費用を負担しつづけることができなくなったことにあるようだ。
エビデンスのある通常医療も、そうでない(例えば土着的・伝統的な)医療に、どちらもケースによって効果があったりなかったりする。そのうえでエビデンスのある通常医療が優位性を持つのは、それが(少なくとも統計的には)確実に高いコストパフォーマンスを示すからで。

ところで、以上は宇樹さんがお書きのエントリの本題ではない。
宇樹さんは当初通常医療によって望ましい効果を得られなかったこと(および適切な対応をしなかった医療従事者)に対する怒りを述べ、そのうえで、

私は、医療に関係する方に、また、医療業界に関する権限を持っている方に、伏してお願いしたい。どうか、「標準医療で十分な治療・ケアを受けられなかった結果ニセ医学に流れる」という人たちが散見される現状を変えてはくれないだろうか。

と訴える。もちろん宇樹さんはそれをここの医療従事者の資質の問題へ還元することはせず、エントリは医療システムの話につなげられていく。
そしてまたここでも、ニセ科学の問題は公共性の議論にコネクトしていく。

ここからは余談、と云うかこのエントリの最初のほうにつながっていくのだけど。

だから私は、一人でもこういう要らぬ苦しみや喪失を背負う人を減らすための役に立ちたいのだ。彼らは私だったかもしれないから。これはあくまでも自分自身の救済のためだ。私は、いつかの私がそばにいてほしかった誰かを、自分で演じているだけにすぎない。

この種の意識は、ニセ医療・ニセ科学の問題を論じる際には重要だと思う。
ぼくはとりわけ、「科学の正しさ」「通常医療の正しさ」を内面化した論者に厳しい、と思う。それは結局、スタンスとしてニセ科学やニセ医療を広め、通常の科学や医療を誹謗する論者のスタンスの単なる合わせ鏡なのだ、と思うから。余談終わり。