Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

事実と共感

リハビリ継続中、引き続き今日も書く。ちょっと前のエントリにも関係する感じで、でもやっぱりニセ科学についての話。

Wiredのこんな記事を読んだ。

wired.jp

記事そのものは、フェイクニュースについてのもの。事実ではないうそのニュース、デマのことだ。記事はこのフェイクニュースが完全に収益のみを目的として(DeNAの各キュレーションメディアがそうであったように)発信されてきたこと、それが自らの望んでいるような報道に飢えていたトランプ支持者によって歓迎され、ソーシャルメディアによって拡散されたこと、を述べている。

彼らは、まずフェイクニュースサイトを立ち上げ、Facebookなどのソーシャルメディアを通じて広く人々の間に周知させ、サイトに流入してきた人々によって(彼らがサイト内広告をクリックしてくれることで)広告収入を得る。大事なことは、フェイクニュースを提供している側としては、あくまでも広告収入の最大化を図るために引きのよいコンテントを用意しているにすぎないということだ。
アメリカ国内の多くの既存ジャーナリズムが、「トランプが大統領なんてないわー」とばかりにこぞってヒラリー支持に向かったため、トランプを好意的に取り上げるニュースフィードは、アメリカ国内では大して供給されなかった。その飢餓状態を突いたのが、海外で粗製乱造されたフェイクニュースだった。

事実に基づいた内容を発信するインセンティブがない情報の発し手と、自分の望んでいるものを裏付けてくれるように思える情報ならそれが事実に反しているかどうかを二の次にして歓迎する受け手。そっくりだ。

科学は事実、あるいは事実の近似を提示するもので。そしてそれは、ときとして受け入れがたいもの、だったりもする。逆に云うと、個人としてはしばしば受け入れがたいような事実を互いに共有し、その事実に基づいた判断を行わなければならない際に科学は有用なツールとして用いられるわけで、それゆえに民主主義の基盤ともなる。
このへんの議論は、地下猫さんの昔のエントリ(どうされているのかなぁ昨今)を参照。

d.hatena.ne.jp

ある事実を受け入れがたい、と感じる理由はもちろんいろいろあって。感覚的に違和感がある、と云うレベルから、もっと強固な動機がある場合もある(医療関連ではこう云うケースも多いだろう)。事実を事実として認めてしまうと自己同一性に危機が生じる、って理由だったりすることもある(いまだ見受けられる「フクシマ」的言説なんて云うのはだいたいあからさまにそうで。脇道だけど、反デマ派ってことばにネガティブなニュアンスを含めて使うひとたちは、やっぱり自分たちのことをデマに与する「親デマ派」だって自己認識しているんだろうか)。

これはもうある意味、ひとのこころのなかの動きなのでしかたがない部分がある。少なくとも、受け入れがたい、と感じることそのものは非難の対象になるべきことではない。ないのだけどそれはあなたやわたしの裡にあることなので、互いに合意できる判断を事実に基づいて行うためにはあまり重視するわけにはいかない。あなたの思い、わたしの思いだけで、事実に反した判断を行うと、わたしたちはどちらもしあわせになれない可能性が高いのだから。

ただ、ひとのこころのなかの動きは、共感を通じて共有され、広がっていく。そして、post-truthにたどり着く。共感のアンプリファイアとして機能しやすいソーシャルメディアがこのことと相性がいいのは、当然のことなのかもしれない。

これは共感を警戒すべし、と云うことでもあって。そうして、前回のエントリにちょっとつながっていく。

schutzengel.hatenablog.com