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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

想像力の届け方(映画「この世界の片隅に」)

みたもの、読んだもの

あちこちでだいぶ語られているので、ちょっと書いてみてもいいだろう。

1週間前、ぼくは公開2日目にこの映画を見た。

こうの史代の漫画は、圧倒的に情報量が多い。ぼくみたいな不注意な読み手は、さりげなく提示されるそれらの情報に引っかからず、読み流してしまいがちだ。そのことに気づいて意識的に読み方を変えたのは、「夕凪の街 桜の国」を何度かめに読み返してからだった。最初に読んだ時には、この漫画の巻末に(さりげなく、1ページだけではあるけれども)解説が添えられている意味に気づけなかった。

2年だけとは云えぼくはその昔広島の小学生で、ぼくの世代だと日常接する教師にまだ被爆者がいた。彼らが原爆についてぼくたちに語ってくれる機会も、年に数度あった。このブログの更新がまだもっと頻繁だったころ、8月6日前後にかならずなにかしら書いていたのは、それらがこれから失われていくのがわかっていた、から。原爆についての一次情報を持つひとたちに触れた経験のある人間として、なにか書くべきだと思ったから(使命感、みたいな大げさなものじゃないけどね)。
戦争も、その惨禍もぼくたちの日常と、世界と地続きにある。でも、ぼくたち(の世代)にそれを実感する機会はあまりない。そして、それを補うだけの充分な想像力を、おおむねぼくたちは持ち合わせていない。 こう云った想像力の欠如がどのような結果をもたらしうるか、について、たぶんぼくはここでニセ科学について語る際に、しばしば触れてきた。そして(うちのめされていてあまり語ることはできなかったけれど)2011年以降、想像力を欠くと云うことが世界との距離をどのように不適切なものにするのか、と云う実例をいくつも見てきた。

事実は実感とは結びつかない。事実の提示は、実感に立脚した理解(ある種のひとたちはそれを「真実」と呼ぶだろう)にかならずしもつながらない。そのためには、事実は咀嚼され、想像力によってぼくたちの裡で練り直される必要がある。 だから事実は役に立たないとか不要だとか云う話かと云うとそれは逆で。事実に基づかない理解ほど危ういものはないし、事実を把握しようとする姿勢がないまま想像力を働かせようとすることは、むしろとても貧しい結果にしかつながらない。これもまた、2011年以降にぼくが見てきた風景でもあって。

やっと映画「この世界の片隅に」の話になる。 映画は漫画と違って、その表現の要素として、物理的に流れていく時間、を含む。その意味で、原作にあった情報量を(質的に同じものとして)そのまま反映することはそもそも不可能で。この映画のつくり手は、それを膨大な量のファクトで埋め、アニメーションと云う「表現の要素として最初からつくり手の想像力による咀嚼が含有されている」手法で描く。この映画に描かれる世界は映画の登場人物にとってそのままむき出しの「真実」であり、その真実は(映画はそもそも絵空事である、と云う認識を共有したうえで)そのまま受け手に提示される。 そのようなものに接することが、なんと強烈な体験であることか。そして、そのような映画が伝えうるのは、どんなことなのか。

一度見ただけなので、たぶんぼくはまだこの映画のつくり手が映像の中に(意味を持たせて、意図的に)配置したすべての情報に気づけてはいないのだろうな、と思う。原作は再読・再再読時にもつねに新鮮な発見があるような代物だけれども、この映画にもそう云う側面はあるのだろう。でも、それでも映画は原作よりもずいぶんと「わかりやすい」。少なくともぼくはふたつの(原作を読んだ時にも読み取ってはいたのだけれど、その意味をちゃんと理解していなかった)ことがらをあらためて意識した。 ネタバレになるので、意味があるかどうかわからないけれど色を反転しておく。

  1. 周作が哲に、すずを差し出した意味。
  2. すずを除く浦野家のひとびとが、兵役・直接の被爆・入市被爆によって全滅していること。

このふたつは、この物語にとってほんとうに大きな、大きなことなのに、ぼくは原作からこれらを読み取れなかった。と云うことはひょっとすると(ぼくとおなじくらいうかつな読み手がいたとして)原作をすでに読んでいるひとが、映画を見ることで新しい理解にたどり着くこともあるかもしれない。 その意味で、この映画はひとつの、かつてない体験でした。