Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

線引きと想像力(シン・ゴジラについての覚書)

公開からもう1週間が経過したし、どうやら興行的な成功もほぼ確実になったっぽいので、そろそろシン・ゴジラについて書いてみる。

いや、そもそもぼく自身ネタバレをまったく気にしない質だし(謎解きに物語がドライブされていくさまにあまり惹かれないのだ。だから推理小説はあまり読まない)、そのあたりそれほど神経質でもないのだけれど、どうしてもこの映画については気になってしまう。

気になってしまうのは、この映画が「新しい」からだと思う。――と云う云い方をすると誤解を誘うだろうから云い変えると、「ゴジラ映画として」とてもローコンテクストだ、と云うこと。

ゴジラと云うタイトルを名乗る映画は、一般にとてもハイコンテクストだ。そこには積み重ねられた暗黙のお約束があり、そのお約束からどれだけの距離があるのか、と云うのが鑑賞者層の評価軸のひとつとして存在する。そこにはある程度(意図されているかどうかはともかく、事実上)顧客層が絞りこまれてきた歴史にも関係していると思う。

でも最初のゴジラには、そんなものはなかったはずだ。鑑賞者すべてが共有する時代背景、と云うコンテクストは存在しても、「ゴジラ映画として」あるべき文脈、というのはもっていなかったはず。

もちろん、総監督は庵野秀明で、だから全編にわたってこれまでのゴジラ映画に対するオマージュやそれらからの引用はどっさり登場する(あからさまなのはもちろん音楽)。でも、それらは「ゴジラ映画である以上、こうでなきゃ」みたいな、お約束の踏襲や特撮偏差値の開陳ではない(なので多くのとしふりたオタクたちから「そこはそうじゃないだろ」的な声が上げられているのも目にすることができる)。でもそれは、あくまで中心的顧客層たるゴジラファンに向けて提供されたフック、と云う以上の意味付けが与えられているわけではなく、映画の本質的な部分に深く関係してくるわけではない(庵野秀明が想定しているゴジラファンの筆頭は、おそらく庵野本人だ)。

ぼく自身は、映画のなかでたくさんの新鮮な驚きを感じることができた。たぶん、これから観るだれかのそれをスポイルしたくない、と云う思いがネタバレすることに対するぼくの忌避感を生んでいたのだと思うし、この映画についてことさらにネタバレが取り沙汰されるのも、同じ思いのひとがそこそこたくさんいたからなんじゃないか、と考える。

この映画に登場するゴジラに、怒りはない。

攻撃に対するカウンターはおこなうものの、意図を持った破壊は行わない(牧博士とからめて、そうではないかも、と云う考察があることは承知しているけれど、明示されているわけではないのでそれは措く)。基本的には、ゴジラ大田区の川を遡上し、いったん海に戻ってから鎌倉に再上陸し、多摩川を越えて東京駅まで歩く、ただそれだけだ。

そのあいだに、ある人々は呑川の川津波で押し流され、またある人々はその足や尾に蹂躙され、破壊された建造物に押しつぶされる。彼ら彼女らはなにかしらゴジラに仇なしたわけではないし、そこには公正世界信念にもとづくようなロジックはない(登場人物の台詞に、それらしいものはあるけれど)。愛も、夢や希望も、呑川や鎌倉近辺で被害を受けた数千人の(あるいは万単位の)人々を救ってはくれない。

そんな光景をぼくたちは実際に見たばかりだし、つくり手がそれを意識していないはずはない。だから、この映画のつくり手には、相応の覚悟があったのだと思う。エクスプロイテーション、と呼べないこともないだろうけれど、これは映画外の、それでもこの国の観客のほとんどが共有するコンテクストだ。

その当の、踏みにじられる市井の人々を描いていない、と云う批判がある。

ちょっとおかしな云い方かもしれないけれど、おそらくその部分を、つくり手は受け手の想像力に委ねたのだろう、と考える。積み重なった瓦礫の下には、理不尽に人生を断ち切られた人々の亡骸が、まちがいなくある。それぞれ異なった思いを抱き、夢や希望を抱き、愛し合った人々の。

この5年半ほどのあいだ、ぼくはひとの想像力のおよぶ範囲がそれぞれ異なることをまのあたりにする機会がしばしばあった(もちろんそれ以前にもあったのだけれど、とりわけ)。少なくとも「踏みにじられる人々」の描写を事細かに見せられていたら、ぼくは上映時間の最後まで映画館にいることはできなかっただろうし、エンタテインメントとしてこの映画に接することはできなかっただろう。愛も、思いやりも、どのような人間ドラマも、彼ら彼女らを救うことは絶対にないのだから。

このあたりの線引きはデリケートだし(娯楽映画なのだから)、この映画にある描写でも耐えられないひとはもちろんいるだろう。ぼくの場所からすると、先にも書いたようにこの映画のつくり手は覚悟を持ってそうとうに踏み込んだように見えるし、そこを批判点にするひとたちとは居場所と想像力のありどころが違うんだろうなぁ、なんて思う。

ここまでを踏まえたうえで、面白かったし、元気が出る映画だった、とぼくには云える。すべての登場人物が(それぞれの立場と能力と個性の持つ限界のなかで)なすべきことをなし、かろうじて、だとしてもそれが成果をあげる、そんな映画。

野村萬斎と云うキャスティングアンディ・サーキスにもベネディクト・カンバーバッチにも劣らない、すばらしいものだった。あの派手さと地味さ、リアリティと荒唐無稽さの配分が意識的に崩されたクライマックスシーンは、桂米朝の落語理論にある「サゲ」のような役割を見事に果たしていた、と思う。

あと、石原さとみ。二次元的で、映画のトーンからはっきりと意図的に「浮かされている」カヨコと云う役を、難しいバランスのなかで節度を持って演じて見せたと思う(*個人の感想です。登場シーンでの画面の潤いがはんぱない。あ、もちろん尾頭環境省自然環境局野生生物課課長補佐も素敵でした)。

でも、いまの時点ではあまり続編は見たいとは思わない。そこにはまた、第1作からのコンテクスト、みたいなものが背負わされてしまうだろうから。