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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

愛しき仕組み

こちらのエントリで触れた、東北学院大学の学生による卒業論文について、BuzzFeedで石戸諭さんが「死者」とともに歩む街 なぜ、被災地に「幽霊」がでるのか?と云う記事をお書きになっている。

 幽霊ってのはいつから怖いものになったんだろう。先にも書いたけれどぼくは霊的な感受性が極端に鈍い人間で、だから総体としての「幽霊なる存在」はほとんど怖くない(だいたいの場合において生きている人間のほうが怖い)。 それほど強い関心があるわけではないので詳しくはないけれど(ミステリーの都ロンドン―ゴースト・ツアーへの誘いって新書を1冊読んだ程度)、英米圏では幽霊はかならずしも怖いものとはされていない、みたいな印象がある(怖いやつもそりゃいるけど)。ホワイトハウスに現れるらしいリンカーンの幽霊なんて、もし怖かったとしたら、たぶんそれは単に「エイブラハム・リンカーンと云うひとが怖いひとだった」と云うこと以上のなにごとでもないんじゃないだろうか(ところで英米の幽霊って、恨んだ相手につきまとうよりも、おなじ場所に出続けるケースが多いように思う。不敬かもしれないけど、なんだか犬と猫の違いみたいだ)。

幽霊そのものは怖くなくても、「怨霊」は怖い。ぼくだって怖い。それは現世でまだ生きている人間たちに恨みを抱き、祟りなす存在だから。でも怨恨をもって世間に仇なす存在なら、それは生きている人間だって怖いわけで。超自然的な存在であり怨恨そのものが存在意義であるぶん、上乗せして怨霊のほうが怖くはあるけれど。 個人的な感覚かもしれなくて、だからあんまり敷衍してはいけないのかもしれないけど、そう云うわけで現世に(端的にはぼく個人に)恨みを抱いていない幽霊が怖くないのは、至極当然のように思える。

もちろん死ぬことはほとんどの人間にとって最大の災厄で、だから苦しみ恨んでいるのは幽霊と云うものの当然の属性のようにも思えるけれど――でも、その部分が曖昧だったら、どうだろう? ぼくたちは、その存在をどんなふうに受け止めるのだろうか。

「当事者のあいだでも、生と死はきれいにわかれていない。遺体が見つからないため、死への実感がわかず、わりきれない思いを持っている人の気持ちとどう向き合うのか。幽霊現象から問われているのは慰霊の問題であり、置き去りにされた人々の感情の問題なのです」

件の卒論の指導にあたった金菱清教授のことばとして、この記事には記載されている。 死んだ、と云うことは、そのひとが生きていた、と云うこと。幽霊に出会うのが個人的な体験ならば、そのひとが生きていた、と云う事実も(おなじレイヤーで考えれば)そのひとを知るひとたちの心のなかにしか存在しないことだ。生きていて、そして死んだ(そのひとが生きていたことを知っている、または知らない)誰か。

彼らは「幽霊」の存在に理解を示し、温かい気持ちで受け入れている。そこにあるのは死者に対する畏敬の念だ、と工藤さんはそう考えている。

畏敬の念、と云ってしまうとすこし違うようにも思う。もっとカジュアルで柔らかい、尊重の感情。そして秘めやかな、意識にのぼらない感情を、意識の外側から体験させるような仕組みが、ぼくたちの心にはある。ぼくはその仕組みを、こころから愛しく思う。