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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

ぼくたちは幽霊を見る

朝日新聞デジタルの被災地、タクシーに乗る幽霊 東北学院大生が卒論にと云う記事を読んだ(リンク先記事の全文を読むには会員登録が必要です)。

 いや、ぼく個人は幽霊を見ていない(見たことがない)のだけれど。霊感、と云うものの実態がなんであれ、ぼく自身はそれを極端に欠いた人間だ(以前も書いたけれど、かわたれ時のバリのモンキー・フォレストで仮埋葬エリアに偶然たどり着く、と云う、スピリチュアルな方にとってはおそらく怖気に震えるだろうような経験をした際にも、特になにも感じなかった)。
幽霊は存在するのか、と云うことを尋ねられたとしたら、事実としては存在しないだろう、とたぶん答える。答えたうえで、それでもぼくたちは幽霊を見るのだ、と続けるだろう。幽霊の実在を主張することも、だれかが幽霊を見た、と云う経験を「実在しないはずだ」と云うことを根拠に否定することも、どちらもぼくには愚かしいことに思える。この2つの態度から見えるのは、救いがたいレイヤーの混同だ。 その意味で、

単なる「思い込み」「気のせい」とは言えないリアリティーがある。

みたいに感じていたりするのだとすれば、それは危うい。

「若い人は、大切な誰かに対する無念の思いが強い。やりきれない気持ちを伝えたくて、個室空間のタクシーを媒体に選んだのでは」と、工藤さんは考える。

このように考えて卒論の執筆に臨んだのだとすれば、それはスタンスとしては誤りだろう、と思う。死んだ人たちはぼくたちの心のなかに確かにいて、ときにいま生きているひとたちよりも雄弁に語りかけてくるけれど、それは彼ら彼女ら自身がいまぼくたちになにかを伝えたいから、ではない。

証言した運転手がみな恐怖心ではなく、幽霊に畏敬(いけい)の念を持ち、大切な体験として心にしまっていることも、工藤さんには印象的だった。多くの死者を出した石巻で、地域の悲しみを毎日感じとってきた。ある運転手は津波で身内を亡くした。「こんなことがあっても不思議ではない。また乗せるよ」と言う人もいた。

この感覚はわかる。 先にも書いたように、ぼくには霊感がない。だから、死者がそこにいて生き残ったものになにかを伝えようとしている、みたいなことを考えるのは、救いだ(それがたとえば悲しみであったとしても)。そのひとがいたのは、確かなことなのだから。
考えてみると、震災後一度も石巻には行っていない(石ノ森萬画館復興のためのチャリティTシャツは、つれあいが1枚買ったけれど)。当時の仕事の関係もあって東日本大震災直後にはずいぶんと津波被害に遭った海岸沿いはうろうろしたのだけれど、石巻の様子はOSATOさんの記事(こっちとかこっちとか)で読んでいたぐらい。 たぶん、いまはだいぶ街中も整備が進んで、綺麗になっているのだろう。仙台に暮らしていているぼくが、日頃は震災直後のことはほとんど思い返しもせずにいられるのと同じに。それでも、心のなかのどこかに、どんよりとした不明瞭な悲しみのようなものが溜まっていることは、ぼくでさえいまでもときおり感じる。 それが、幽霊と云うかたちをとって知覚される。そんなふうに、ぼくたちの心が機能することもある。 ところで。

指導した東北学院大の金菱清教授(40)は「タブー視されがちな『死者』に対し、震災の当事者たちはどう向き合わなければならなかったかを、明らかにしたい」と話している。

実際のところはわからないけれど、この指導教官のスタンスがどうなのか、と云うのがいちばん気になる部分。所属が地域構想学科、と云うことで、なんとなく社会学者としてはきな臭いあたりを専門とされている可能性もあるなぁ、みたいにも思うので(分野としてどうしても操作的なアプローチが入ってくる可能性があるので、そう云うのじゃなきゃいいな、みたいな。そう云えば某ここいらの大学の事業構想学部教授を批判した記事を書いたこともあったなぁ)。