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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

フィギュアスケート2015年中国杯

おそらくは日本人が出ていない、と云う理由で、仙台では男子シングルの放送がない。ディフェンディング・チャンプの登場する大会なのにもかかわらず。まぁ文句を云ってもしかたないのだけれど、フィギュアスケートの歴史の1ページとなるシーンは(SPだけだけど)さすがに女子シングルのおまけとしてでも放送されたので、見ることはできた。

クァッド・ルッツ。

ジン・ボーヤンと云う選手は知らなかった(ジュニア選手についてはほぼ把握できていなくて、なにかのポイントでつれあいに教えてもらうくらい)。知らなかったけど、事実としてクァッド・ルッツと云う技はもう単なる挑戦の対象、ではなくなった。彼が選手としてどのような魅力を持っているのか、みたいな観客視点で語れることはぼくにはまだないけれど、少なくともスポーツとしてのフィギュアスケートの扉を(アダムより先に)開いた選手となったことは間違いない。

先に書いたとおりSPしか見られていないけれど、そこだけで見るとハビエルはきっちりとチャンプの演技。ハン・ヤンはちょっと余裕がなくて、彼独特の(落語で云う)フラ、みたいなものがあまり見られなくて、ちょっと残念だったかな。でも表彰台はさすが。

でまぁ、女子。

ちょっと前に余裕、と書いたけれども、たぶんもっと適切な用語があるんじゃないか、みたいに思う。プログラムが本来持ちうる力、みたいなものをはみだして、選手と云う演者が観るものに伝えてしまうなにがしか。どう書けば伝えられるのかはわからないけれど、上り調子の若い選手のまぐれのような好演とか、レジェンド一歩手前のベテラン選手の好調な演技とかを見た時に感じられることのある、そこにみなぎっている(プログラムを超えた)なにかの力、みたいなものが確実にある。たぶん条件として必要なのは、選手の迷いのなさ、みたいなもの。

復帰した浅田真央の演技は、はっきりとそんなものに満ちあふれていた。キャリア最後期の大輔にも感じた、フィギュアスケート選手における成熟とはこう云うことなのか、と見せつけられる演技。優勝と云う結果がちゃんと伴ったけれど、そうでなくともこれはもう、選手としての一定の到達点、と云うものの実演としか云えないようなもの、だったと思う(表現者、としてではなく、あくまで選手としての)。

最良の真央(≠最良の演技)。それでまぁ、ぼくはいいのだけど。

ロシアっ娘たち(別名マトリョーシカ、だそうな)はちょっと前の日本のような「国際大会より国内大会で勝つほうがむずかしい」状態に明らかに入っていて、そのうえみんな順番に体型変化の壁にぶつかってるもんだからもうなんだかひとりひとり不確定要素ばかりでなんかたいへん。ひとり先に抜けだしたはずのリーザも、絶好調、とまでは行ってないみたいだし。

アーニャはどうにもバランスが悪いし、レーナチカはやるべき方向に演技が絞り込めてない感じ。でもきっと、今季を通じるなかでもそこから抜け出してくる選手がいるのだ。

長身、個性的。一見ちょっとずぼらで雑な印象がありつつも、どこか超然としていてなんだか漠然と器の大きさみたいなものを感じさせる。いいのか悪いのかわからないけれど、どこかチーム牛タンの大御所たる荒川静香に重なるようなキャラクターが、レペゼン現役チーム牛タンたる本郷理華にはあると思う。

今季の彼女はかつてどこかその演技を弛められたものに見せていた猫背をほぼ解消して、棒手振り一歩手前とも見えるような所作をちゃんとのびのびとした表現に転化することに成功している。これは振り付けのあっこちゃんとミヤケン先生のよい仕事、と云うことでもあるんだろうなぁ。理華ちゃんと宮原さんと云う相反するような個性を同時期に自国のトップクラスの選手に持ったぼくたちは、幸運を叫ぶべきか、悲鳴をあげるべきか。

なんだか、面白いシーズンだ。