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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

理念と正義(「小説フランス革命」佐藤賢一)

文庫で追っていて、全18巻を読み終えた。
小説フランス革命 第一部セット (小説フランス革命) (集英社文庫)

小説フランス革命 第一部セット (小説フランス革命) (集英社文庫)

  • 作者: 佐藤 賢一
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2012/06/01
  • メディア: 文庫
小説フランス革命 第ニ部セット(小説フランス革命) (集英社文庫)

小説フランス革命 第ニ部セット(小説フランス革命) (集英社文庫)

  • 作者: 佐藤 賢一
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2015/05/28
  • メディア: 文庫
佐藤賢一は好きな作家に入るのだと思う。文庫に落ちた彼の小説のほとんどは読んでいる。まぁお家芸のフランスを舞台にした歴史小説以外では、ちょっとどうかな、みたいに思う作品もあるけど、(昨今読書量のめっきり落ちたぼくにとっても)とりあえずは追おうと思う作家のひとりだ。 単行本で12冊、文庫で18冊の大著だ。とは云え(文庫で)第1部・第2部それぞれに月1冊の刊行ペースは消化するのに辛い量ではない。おおむね10年にわたるフランス革命の経緯を、そこに登場する人物それぞれの視点から三人称で描写していくと云う、この作者の得意の方法で、物語は展開される。基本的に俯瞰的な視点は提供されないし、登場人物の個性もあって、物語の展開はけしてきびきびとしたものにはならないし、ストーリィの展開も追いやすくはない。ただ、それを一概に欠点とするのは適切ではないだろう(ひとによっては、読みづらく感じるだろうけど)。 ミラボー、デムーラン、ダントン。サン・ジュストロベスピエールルイ16世タレーラン、ロラン夫人、エベール。激動の10年間を史実に準拠しながら展開していくので、主要な登場人物だけでも複数登場してくる。上記の手法にもとづき、この小説は革命の客観的な展開よりもむしろ、革命に関わるそれぞれの登場人物の行動と、それを支える内面を描く。 もちろん、フィクションだ。史実に残る登場人物の言動のすきまと、それらに至るまでの内面は、作家の想像力で埋められている。それでも、背景となる史実を見据える作者の目はある意味保証済みなので(なにしろ当時のフランス語を読みこなす学位持ちだ)、読者はある程度安心して登場人物の行動を追うことができる。 ひどくなまなましく、人間臭い、それぞれの行動を。 場面場面で登場人物は入れ替わり、視点はうつろう。それでも、全体としての物語の中心にはマクシミリヤン・ロベスピエールがいる。これは実際にフランス革命と云うものがそう云うものであった、と云うことでもあろうけれども、(事実はともかく)登場人物たちのあいだでもやはり、それぞれ異なった距離を置きながらも彼は中核に据えられる。理想を、正義を語る存在、追求するものとして。 ともかくも現実を理想に近づけるようにドライブする政治家としては、自他個々人の幸福についての認識を踏まえて現実的な妥協を選択できるミラボー、あるいはダントンのほうが圧倒的に高い力量を示す(描写の角度は大きく違うけれども、デムーランもまたそうだ)。それでも彼らは、ロベスピエールの理念を、正義を必要とする。理念の、正義のない革命は、その目的を、価値を失う。 もちろん、正義というものは一面的に定義できるものではない。それは個々の置かれた状況で大きく変わる。それでも正義が執行されない革命は革命ではない。ダントンは、デムーランはそれぞれの位置から、それぞれの能力を振るってロベスピエールの理想を支える。云いかえれば、革命の正義をロベスピエールアウトソーシングする。 そして、純化されたロベスピエールの理想は(サン・ジュストが付け加える急進性とも相俟って)彼らと並び立つことのできない場所までたどり着く。
世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。
これはロベスピエールではなく、エルネスト・ラファエル・"チェ"・ゲバラ・デ・ラ・セルナが彼のこどもたちに贈ったことばだ。 そして(この小説で描写されるロベスピエールにもはっきりと通じる)ここに語られる革命家の資質は、けしてその持ち主を幸福にしない。「すぐれた」革命家はその裡に消え去ることのない痛みを抱き続けながら、世界のどこかで誰かが被っている不正ができるかぎり解消される方法を模索し続けることになる。 そして、これは革命家の資質について語られたことばであり、正義が現実に世界を変える理念として運用されるためには、本質的にまったく異なる「政治家の資質」を持った存在が必要になる。ミラボーの、またはダントンのような。あるいは(それが望むことでなくとも、みずからのカリスマを政治的に利用すると云う判断ができる)フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスのような。 ぼくらは政治家でも革命家でもない(かもしれない)。それでもぼくらは社会のなかで生きていくために政治を必要とするし、みんなでよりよい社会に暮らすために正義(と判断される、つねに疑いながら選ぶべきもの)を必要とする。そのあいだで、ぼくらは永遠に宙ぶらりんだ。 たとえばぼくはロベスピエールのような、またはミラボーダントンのような、自分自身を、あるいは他者を犠牲をすることをいとわない生き方を選ぶことはできない。だとすれば、どれだけ居心地が悪くとも、その宙ぶらりんな状況にいつづけなければいけないのだろうな、と思う。その場その場で考えながら。