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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

用語の精度

「科学者ヘイト」 - Togetterまとめを読んだ。

 まず片瀬さんがひどいめに遭ったのは知っているし、そのことでどれだけ傷ついたかも知っている(と云うか、そのへんはこちらのエントリのコメント欄で直接お話をしている)。語義通りのヘイトを向けられる状況があった、と云う認識に異論はない。片瀬さんに貼り付けられたいろんなレッテルのなかでもたぶんいちばんひどい「エア御用」と云うことばについては、こっちこっちこっちで書いている。 そのこと自体は、等閑視されるべきことだとは思わない。とは云えぼくもニセ科学の問題について論じてきた人間としての立場から、上に挙げたエントリでは片瀬さんにあまりやさしい言葉はかけていないけどね。

でまぁ、前置きは前置きとして。 科学者である片瀬さんに向けられたヘイトを、それゆえに「科学者ヘイト」と呼ぶのは、適切ではないと思う。それは、主語が拡大されすぎている。 ヘイトを含んだ用語を、それゆえにヘイトスピーチと呼ぶのは、適切ではないと思う。ヘイトスピーチと云う用語は(議論はあるにせよ)より限定された意味を持ったことばであって、単に「ヘイトな内容を含む発話」を意味するものではない(このへんは言及先のTogetterのコメント欄で、地下猫さんがちょっとていねいめに説明されている)。

で、片瀬さんのこの種の言動を、ぼくは以前から憂慮していた。まぁこう云う水準の議論はそうそうめずらしいものでもないのだけれど(つねに精度の高さが要求される議論ばかりではないし)、どうしてとりわけ片瀬さんについて問題だって感じるのかと云うと、まさに片瀬さんが「ニセ科学を批判するもの」としての立ち位置をお持ちだからで。

ニセ科学にまつわる議論については、いろいろな角度がある。そのなかでぼくが主要な問題点として論じてきたのは、おおざっぱに云うと「感覚に寄り添った不正確な言説を、あたかも科学の裏付けがあるようなそぶりによって一定以上の確度が保証されたもののように語る」部分だった。その技法のなかには、特定の事例をより広い範囲に不適切に敷衍することや、用語の意味を語感に頼って拡大したり本来の意味とは違った用法で用いること、なども(わりと主要なものとして)含まれる。 だから、言説をなすうえでそのあたりに意識的になる(不注意にそう云う技法を使用してしまわないよう留意する)のは、ニセ科学に対して批判的な立ち位置を持つ論者には必須のスタンスだと考えている。このあたり、ぼく個人のなしてきた議論の方向からくる固有のスタンスではあるのだけれど、でもニセ科学について継続的な議論を行ってきた論者は、あまりこのへんに対して無神経なひとはいないと思う(それでも、ぼくなんかも精進不足で軽率な言説をしてしまったことは何度もあるけどね。あと菊池誠とか)。

そのへん、完璧であれ、と望んでいるわけではなくて。でも、そこに意識的になれずに自分に許してしまうと、肝心の議論の場において批判対象であるはずのニセ科学の提唱者や伝道者とあまり変わらなくなってしまうし、そうなると予備知識(または先入観)なしのギャラリーから見れば「どっちもどっちの両陣営」みたいに見えてしまう。片方に、科学者としての肩書があろうと。だって、議論においておなじ技法を使ってるんだから(ひょっとすると、なかには「権威に頼るぶん疑わしい」なんてうがった見方をする向きもでてくるかもしれない)。 これは、すごくもったいないことだと思う。まぁもう少し一般論じみた言い方をすれば、批判的な議論をする場所にいる論者は、必要なだけの精度で用語を使おうと意識する必要がある(そうしないと、相手の言説を否定するだけの精度を持った議論ができない)ってだけの話、だけだったりもするんだろうけどね。

まぁこのあたり、PseuDoctorさんもだいぶ以前に片瀬久美子さんの事と云うエントリを起こしてお話もされていることだし、あらためて伝えようとしても伝わるものなのかどうかわからないけど。 ところで、人文学的教養にあふれたかたがたのあいだでは、精度の低い用語のことを「射程が広い」と形容するらしい。よくそれで議論が成立するなぁ、みたいにも思うけど、これも議論上の技巧(と書いて「テクニック」と云うふりがなを振る)って話なんでしょうね。