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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

Just like Rock and Roll. (Plaisin' SCANDAL)

音楽あれこれ

regista13さんの「ロック」を崇拝し「アイドル」を侮蔑する人々って云う、まぁ面白いんだけどなんかどこかそれ云っちゃったら身も蓋もないじゃん、いまどきロックってものの価値観にしがみついてる小僧とか、「大人のロック」なんて云う背筋が凍るほどいさぎよくないコンセプトを持ちだしたりして自己正当化してる爺どもに寝首掻かれるぞ的なエントリがちょっと話題になってたりもして。そのへんに関係するようなエントリだけど、でもうちの小娘たちについて書くのでトラックバックはしない。

なんだかわからないけれど、なんとなく昔からロックには「ほんもの」と「にせもの」がある、みたいな価値観が存在するように思う。古くはそれこそはっぴいえんどの時代の「日本語ロック論争」の頃から。

でも、なにがほんもので、なにがにせものなのか。 その違いってなんだ?

ロック小僧だった中学生から高校生にかけて、ロックそのものは大きく変わっていった。ロックって大括りで呼ばれていても、その端っこから対極の端っこまではひどく距離がある、すでにそんな状況になっていて、そのフィールドは(ジャムからピンク・フロイドまでの、イーグルスからアイアン・メイデンまでの)広大な版図を擁する、そのなかにたくさんの情報を抱えた音楽ジャンルになっていて、そのなかでうろちょろすることが、結果的に音楽を受容するにあたっての感受性の基盤になった。

時代背景もあってそれなりにゆがんだ状況ではあったのだろうと思うけれども、結局ぼくなんかはそのなかで、音楽的要素として自分が惹かれるものはどんなものなのか、と云うのを見つけてきたんだろうと思う。当時のロックと呼ばれる音楽ジャンルの節操のなさは、たまたまその時代に居合わせただけのぼくに、相当多くのものを提示してくれたのだと思う。

あるものは過去にあったロックのいろんなイディオムをひたすら誇張しようとして暴走し、あるものは無節操にほかのジャンルの音楽から気に入ったものを取り入れようとする。「ロック」と云うことばのもとで、内包される音楽的な要素が拡張されていく。その動きそのものがロック、と感じていられるような状況で、さて果たして「ほんもの」だの「にせもの」だの、ってのはなんだ。

でもって、同じ頃まだ「歌謡曲」と云うカテゴリが存在していて。ちょうど重なるように、歌謡曲は「パクリ」の時代を迎えていて。要するにぼくらみたいな「洋楽」を(ふつうに流行しているもの、程度でも)聴いている人間からすれば、チャートに上がっている曲のかなりの割合の「もとネタ」を当てられる、そんなヒット曲だらけの時代。でも、ぼくが大学生になるころから、そのあたりの風向きが変わってくる。要は「邦楽」が、流行している「洋楽」を消化しはじめた時代。

「ロック」のすてきな部分のエッセンスが、飲み込みやすく、ある意味洗練されたかたちで、「邦楽」として耳に届いてくる。拒む理由はない。たぶんこの頃が、ぼくがアイドル文化と云うものにいちばん接近していた時代だった。

そしてまぁ、「ロック」そのものも、だんだんとそう云ったものに変容していく。

大掴みに云えばガンズ・アンド・ロージズに熱狂した層なんてのはぼくの年齢プラスアルファ数年の、ごく一部の連中だけだったと思う。バンドとしての彼らにはフォロワーもいやしないし、リスペクトを捧げるミュージシャンをみたこともない(同時期の日本の「ロック・ミュージシャン」には、それこそ彼らを「パクった」パフォーマンスを披露していた向きも見受けられたけど)。ロージズの音楽とパフォーマンスには「ロック」と「ロックのようなもの」の隔壁なんかはなかったし、「ほんもの」と「にせもの」の差異なんかもなかった。ありていに云えば彼らはそこいらにある「その種のもの」を手当たり次第に取り込んで、そして消費しつくした。

あとは焼け野原だ。

焼け野原で、「ロック」になにができるのか。それを探す営為に音楽的な意義はあると思うし、逆に焼け残ったものに命脈を与えようとすることにも意味はあると思う。でも、そこを意識しない、できない「ロック」なんて云うものに、「ロック」であるがゆえの価値なんぞがあるわけがなくて。と云うか、その看板にしがみつくこと自体、ぼくらの世代の「ロック」的美意識から見ればひどく非「ロック」的な行為にしか見えない。

以前は、ロック、と云うジャンル内での批評的な視線にさらされてきたような、まさにそう云う行為だから。

ぼく自身はと云えば、かつて拡張されたロックのなかで見いだしてきた音楽的な要素が、ほかのジャンルのなかでより純化されたかたちで見つけられることに、歳をとるごとに気づいていって。それはたとえばスマラ・ラティに、セロニアス・モンクに、アストル・ピアソラに見つけることができることを知って、だんだん「ロック」とともにあることの意味をそれほど強くは感じられなくなったりもして。

まぁたぶん、ぼくにとって「ロック」ってのはその程度のものだったのだろう。「大人のロック」みたいな世迷い言にしがみついているご同輩の皆々様にとってはどうなのかしらないけど(ところでアイリッシュ・パンクって、ロックとかパンクとか云うよりむしろトラッドの文脈にまっすぐ乗るものだと思う。どうでもいいけど)。

そう云うわけでもう、「本物のロック」なんてのはたくさんだ。そんなものは掛け声だけの搾りかすだ。解体されて音楽をつくるうえでのイディオムとしての「ロックのようなもの」だけで、ぼくにはもう充分だ。

だから。

"I wanna be your Rock'n Roll"、とうたってみせる。

本物ではなくても、ましてやロック・バンドでさえなくても。ぼくはそこに、より強烈な切実さを聴きとるのだった。