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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

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rootportさんのあなたは「人から笑われない趣味」を持っていますか?/小説『アニソンの神様』感想と云うエントリを読んで、ちょっと思ったこと。言及先のエントリとはほとんど関係ない内容なので、トラックバックはしない。

 知人のジャズ・ギタリストのひとり(プロじゃないけど地域のシーンには不可欠、くらいの立ち位置)が、なぜだか今年のテーマをアニメソングに定めて活動している。女性ヴォーカルを入れてみたり、今年のジャズフェスではギタートリオでやってみたり(どうもアレンジが整然としすぎてるので、「もっとファンキーなのやろうよ。ワウ踏みながらハクション大魔王とかさぁ」みたいに云ったら「それじゃもうジャズじゃないじゃん」って怒られた)。でまぁ、これって正しいんだと思うわけで。

どうもアマチュアがジャズ、って云うと、とりあえず(青本に載っているような)スタンダードを曲目に選ぶ。セッションなんかだとこれはもうしかたなくて、その場でたまたま組み合わせになったパーソネルがともかくなにかやろうとすれば、共通して熟知しているテーマを選ぶしかない。と云うかそもそもジャズのスタンダードと云うのはそう云うもの、と云うのが(ジャズを本拠地としないのであまり詳しくない、入り口から理解がビバップに偏っている)ぼくの認識。たいていの場合、べつにスタンダードはそもそも「ジャズの曲」じゃない。
聴く側にしてもスタンダードの曲は、演奏における着眼点を見つけやすい。先例がどっさりあるので、目の前の演奏をどう評価すべきなのか、の手掛かりが得やすいので楽だ。定禅寺ストリートジャズフェスティバルでそぞろ歩きをしていると、聞こえてくる曲がスタンダード、と云うケースが多い。とりわけ、ジャズコンボの多い定禅寺通では(あとやたらと「スペイン」が聞こえてくるって話もある。これもまぁ演る側の気持ちはわかる)。

ただひっくり返すと、これはこれでおもしろくない状況でもある。もちろんすべてではないけれど、要するにいつまでも60年くらい前の流行り歌を聴いている、と云う話でもあるわけだし。
こうやって考えると、先述のギタリスト氏の選択はまっとうもまっとうで、まったく奇を衒ったものじゃない、みたいに思えてくる。要はプレイヤー同士で約束事とニュアンスが共有できて、オーディエンスにもそれが伝われば、なにも大昔の曲を選択する理由はないはずなのだ。歌謡曲でもいいし、童謡でもいいし、アニメソングでもいい。むしろそのほうが「ジャズを知っているひと」にしか通じないようなスタンダード・ナンバーを選ぶよりも、ずっと健全な発想のはず。
ぼくらにとってこどもの頃に聞いたアニメソングは、多くの場合ことばをかわさなくても通じるような共通のボキャブラリーだったりもするのだから。

ずいぶん前にこちらのエントリで書いたけれども、その意味でクリヤ・マコトの2枚のアニメソングアルバムは、ジャズとしてはほんとうに正統的なアプローチだと思う。なんと云うか、「今あるべき、留まらない」正統。演奏はジャズ好き以外の層に聴かれることを想定してか、逆に既存のジャズのイディオムをちょっとサービス過剰な感じでちりばめたものにされているのだけれど、そこでプレイされるピアノの本気度ったら尋常じゃない(そう云えば数か月前に、30人くらいしか入らない小さなハコで彼の演奏を聴く機会があって、その凄さに泣いたっけ)。「おしゃれ」と云う呼ばれ方をするような安物じゃない、ジャズ。このアルバムが2枚とも廃盤なのが、ちょっと信じがたい。

とは云えアニメソングも、昨今のものはどうも担当するミュージシャンの作家性が全面に出るものが多くなっている(うちの小娘どもみたいに、そのへんを足がかりにアニソン好きもアイドル好きも音楽好き女子中高生も元バンド小僧中年もまとめてファン層に取り込んでしまうようなケースもあるけれど)。これ自体は歓迎すべきことだと思うんだけど、ぼくらの世代が幼少期に聞いたようなアニメソングみたいなアノニマス性、と云うのはちょっと薄れてきているのかもなぁ、と思うと多少複雑だったり。

ところで阿部薫が「アカシアの雨がやむとき」を演目に選んだのは、どんな理由によってだったんだろうか。