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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

真に受けない

坂本龍一が、主催した「さようなら原発10万人集会」で宣ったらしい「たかが電気のためになんで命を危険にさらさなくてはいけないのでしょうか。」と云う発言について、あれこれと反響があるみたいだ。

 ひとまずはJ-CASTニュースの記事、坂本龍一が反原発運動で「たかが電気」発言 ネットで「電気で儲けた人が言うか」と疑問の声と、NAVERまとめの「さようなら原発10万人集会」坂本龍一スピーチ 全文にリンクしておいて。

ぼくが不思議なのは、どうしてそこになにかしらちゃんとした思想的な意味があるように受け止めるひとがいるのか、発言の内容と本人の行動との整合性を期待するひとがいるのか、と云うこと。

こちらでも書いたけれど、坂本龍一は優れた音楽家であって、つまるところは優れた表現者ではあっても、思想家ではない。彼にとって思想は強靭な表現を生み出すための、云ってしまえばブリコラージュのための素材であって、それ以上の意味を持たせたことなんてない(読み取ろうとすることは可能だ。ただそこにはひとむかし前の「エヴァンゲリオンの謎解き」と同種の意義しかない)。彼がある思想に接近して見えるとき、そこにあるのはその時代・その時点での当該の思想が持つ力(そしてその思想を下敷きにすることによって表現が獲得しうる演出上の力)に対する着目、であって、けして彼自身がその思想を深く理解しているとか、傾倒しているとか云うことを意味しない。

だから、それを真に受けて共感するのも反発するのも、どちらも筋違いにぼくは思える(と云うか、そう云うひとたちは日頃どう云う角度で彼の音楽を聴いてるんだろう、みたいにも思ったりする。聴いてりゃわかるだろ)。ことばとして表出されたものだから、そこからそのひとの考え方を読み取れる、と考えるのは自然だけど、そもそもがそこにはたとえば「Cと記譜されていればその音程はおおむね440Hz」と云ったたぐいの意味しか持たされていない。

ここしばらくロハス(原義としての、つまりはマーケティング用語としての「ロハス」)的な視点を表に出してきたように見える彼は、四半世紀以上前のバブル前夜には未来派をテーマにしたアルバムをリリースしていた。そこにたとえば転向のようなニュアンスを読み取るのは簡単だけど、あまりに表面的で的外れだ。思想的に地続きではないことが、むしろ彼の表現者としての一貫したスタンスを示しているのだから。