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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

歴戦

よしなしごと

こんな記事を読んだ。

 去年の3月11日に起こったことは、だれにとっても恐ろしい体験だった。程度の差こそあれ。津波に洗われた地域に住んでいたひとたちにも、そこに隣接する地域のぼくたちにも、そして直接の被害を受けなかったひとたちにも。

草野マサムネが倒れたことを、ぼくは笑えない。例えばテレビを通じて映像を目にするだけで、深く傷つくこともあるのだ。
ぼくは自分の知っている海岸線が破壊された光景を、少なからず肉眼で見た。そこにまつわる、古いものも新しいものも取り混ぜたぼく自身のいろいろな記憶ごと、破壊された光景を。いまここで、自宅にいてそれらを思い起こすだけで、胸が苦しくなる。ぼくのような極端に神経の太い人間でさえ、そうなのだ(ちなみにこう云ったことがあるから、ぼくは「自分の目で被災地を見ておくべきだ」と云う意見には簡単に賛同できない。修猷館高校の英断には、さすが、と感服するけれど、それはこの研修旅行が修猷らしく、生徒の希望を前提としたもの、として催行されているからでもある)。

「水たまりに目玉がたくさん見えた」「海を人が歩いていた」…。被災者の“目撃談”は絶えない。遺体の見つかっていない家族が「見つけてくれ。埋葬してくれ」と枕元に現れたのを経験した人もいる。

だから、こう云うことを経験するひとが存在するのは、感覚的に理解できる(ぼくですら見てしまいそうだ、と云う意味で)。引き起こされているのはだれにも否定しようのない、実体験だ。

菊地誠の科学と神秘のあいだで述べられている、主要なテーマの一つでもあるけれど。客観的にはどうだとか、ましてや科学的にどうだとか云う話では、これはない。
ひとがじっさいに感じる、そのひとにとっての、そしてなんらかの対処が必要な事実があって。こんな場合に、たとえば科学的な事実をよるべとしてなんらかの行動を起こすことは、最適な選択肢でない場合もありうる(ちなみに震災以降「科学は無力だ」と云う言説を発したがっている向きには、それが無力である状況が継続することをなんらかの理由で肯定的に捉えていたり、ときにはそのような状況をつくることにみずからコミットしていたり、と云うケースが多いように思う)。でも、ぼくたちが社会のなかで共有し、発展させてきた知恵は、もちろん自然科学だけではない。

宮城県栗原市の通大寺(曹洞宗)の金田諦応住職も、「いる、いないは別にして見ているのは事実。みな、心の構えがないまま多くの人を亡くした。親族や仲間の死に納得できるまで、上を向けるようになるまで、宗教が辛抱強く相談に乗っていくしかない」と話す。

いま存在する、歴史のある穏健な宗教では、教義上幽霊の存在をはっきりと肯定しているものはない、みたいに認識している(お化け、と云うと微妙だけど、すくなくともここで語られているような存在としては)。とは云っても中心的な教義から離れた部分では(土俗信仰との実践上必要な混交もあるだろうし)それらに向きあう局面は当然発生するはずで。宗教が、ひとのこころを扱う分野にある以上。
云い方を変えると、歴史のある穏健な宗教は長年それらと闘い、または折り合いをつけて共存してきた、その方面では洗練された有効な戦術を持ち、数多くの歴戦のつわものを擁するエキスパート集団のはずだ。

日本基督教団仙台市民教会(プロテスタント)の川上直哉牧師は「(お化けは)行政には対応できないし、親族や近所にも相談しにくい」と話す。

宗教が蓄積してきた知恵に頼れる部分があるとすれば、それはとても心強いことだと思う(カルトやニセ科学が跋扈するのを防ぐ、まさにそのためにも)。まぁ、「ひとを見て法を説く」と云ってしまえば、簡単にも見えてしまいかねない話なんだけどね。

ところで余談。

宮城県石巻市の寺院では昨年、クリスマス会を開き、牧師と僧侶の両方が講話をした。

これ読んで蝉丸Pの散多菩薩法要を思い出したのはぼくだけでしょうか。ぼくだけですね。