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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

呼応するもの

群馬大学早川由紀夫教授の言動については、以前から――3月11日以前から――ある程度見知ってはいた。まぁもちろんニセ科学の問題について議論するものとしていろいろ考えることもあったのだけど、それでもまぁ、言及はしてこなかった。それは、ニセ科学問題への議論に対するすべての対抗言論にぼくが(ぼく自身が)対応すべき、と云うことでもない、と云う判断でもあったし、対抗言論そのものの存在はまぁ否定すべきでもない、と云うのもいくらかあったからで。

ところでぼくは、斉藤和義の「ずっとウソだった」と云う曲について、ふたつのエントリを書いた。こちらこちら。そこでぼくは、こんなふうに書いている。

このうたを歌った斉藤氏と、このうたを聴いて「快哉を叫んだ」少なからざるひとたちが、いったいどこに立っているのか、だれに向けてうたったり快哉を叫んだりしているのかが、ぼくにはさっぱりわからない。
この曲に込められたメッセージは、そこに連ねられたことばは、そのメッセージに共鳴するリスナーの多くを「快哉を叫ぶ」ような場所にしか連れていかなかったように見える。と云うか、その場所にしか連れていけないような表現だった、とぼくは思う。そんなメッセージなら、ないほうがましだ。

この歌をうたうにあたっての、斉藤和義の真意はわからない。それでもその表現の結果から、ぼくは斉藤和義の表現を咎める。表現の結果として、それを受け止めるリスナーに快哉を叫ばせてしまった結果を、彼がよしとするのかどうかはわからない。ただ、真意がそこになかったにもかかわらず快哉を叫ばせてしまったのだとすれば、それは斉藤和義表現者としての失敗だと思うし、それが彼のうたの目的であったのだと云うのなら、ぼくはそこに込められているらしいメッセージを否定する。

あるメッセージを受け止め、それを支持する。このとき、そのひとが支持したメッセージには、そのひとのなかにあるなにがしかの事柄に、呼応するものが存在している。 早川由紀夫教授が震災後に福島の居住者に向けてtwitterで発したメッセージについては、Skeptic's Wikiの「早川由紀夫 (東日本大震災)」のページにおける「早川氏のツイート」の項目にまとめられている。
早川由紀夫教授に群馬大学から訓告が与えられた件について、ネット上では彼を弁護する声が少なからず見受けられる。でも、彼を弁護するひとたちには、まず上でリンクした彼の発言を再度確認したうえで、できれば自分自身に確認してほしい、と思う。

早川教授の底意はどうでもいい。あなたの真意もどうでもいい。あなたのなかにあるどのようなものが、これらのことばに呼応したのか。そして、それらが自分のなかに(少なくともいったんは)あり、これからもあり続けることについて、あなたは自分を許し、今後も許し続けることができるのか。自分がそう云う存在である、と云うことを、自分自身に許すのか。

もちろん、許すのだ、と云われれば、それ以上(いま、この時点では)ぼくに云うべきことばはない。そのような存在として、あなた(たち)はこれからもありつづけるのだな、と思うだけだ。