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Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

届かない想像力

片瀬久美子さんのtweetを集めたtogetter片瀬さんのお願いを読んで、こちらのエントリのコメント欄でのやりとりをちょっと思い出した。

元エントリの主旨は「表現の場所に立つこと」についてだったんだけど、それとは別の部分として。

ぼくにはこどもがいなくて、だからこのエントリの議論のなかで「その表現によってじっさいに傷つけられうるひと」については充分な想像力が及んでいるとは云い難い状態で論じていて。当然ながらどうやったって議論としては包括的なものにはなりえない状態なんだけれど、ぼくはぼくの持ちうる視点からしかどうせ論じられないので、欠落は意識しながらもそのまま議論を進めていた。

で、コメント欄にダウン症の娘さんをお持ちのsatomiesさんがお越しになった。
そして、satomiesさんの残してくれたことばは、その欠落を少なからず埋めてくれただけではなくて、「責任も因果もないのに起きてしまったこと」に対する、すこやかな向き合い方のひとつを示してくれた。そして少なくともぼくは、そのsatomiesさんのスタンスに、おおげさでなく救われた。ひとはこうもあれるのだ、ありうるのだ、と云うことに。

satomiesさんが例外的なのかどうか、ぼくにはわからない。わかったのは、ひとがそうありうる、と云うこと。そして、satomiesさんのことばに触れるまではそのことに確信を持てないくらいに、ぼくの想像力がとぼしかったこと。じっさい自分ではその程度のものだ、とわかっていても、これはやっぱりある種恥ずべきことには違いない、と思う。

そう云うわけで、ぼくが云えた筋ではまぁ、まるきりないのだけれど。
福島の放射能による催奇性を語ろうとするひと、そう云う情報を【拡散】しようとするひとたちには、その内容を当事者として受け止めるひとたちの目にその情報が触れることに対して、どれくらいの想像力が働いていますか? と云うのは、すこしだけ問いたいように感じる。
野尻美保子さんの発言を中心としたtogetter放射性物質による先天性の異常のデータを読む。にもリンクしておきます。