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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

コミュニケーション・マネジメント

コミュニケーション、と云うことばの意味はまぁ、相互に情報を提供しあい、受け取りあうこと、と云うことでそうは外れてはいないのだと思う。ただまぁ、そこにはそのコミュニケーションの目的、と云うのもたぶんあって。

なんとなく素朴に、コミュニケーションは相互理解、あるいは認識の共有のための営為である、みたいに考えてしまう。
おなじように考えているひとも多いと思うんだけど、でも例えば営利企業の人間が自社社員に向けてコミュニケーション能力と云うことばを口にする時に、そのことばは相互理解や認識の共有のための能力、なんて云うものを意味しない。それは対話の外形を取りながら、自社の事業に優位な結論を、相手に反論の余地を与えない(望ましくは反論すべき必要を感じさせない)かたちで導き出す能力のことだ。そんなところに、素朴なWin-Win的な発想が入り込む余地はない。概念的には、たぶん芦屋広太が書いているような「ヒューマン・マネジメント」の能力に近いもの、になるのだろう。まぁポルノを「アダルト向け」と称するような話なんだけどね。
そのへんを考えると、なんとなく不思議だった「科学コミュニケーション」の近辺にいる一部のひとたちのスタンスが、理解できる気がする。

少し前に「エア御用」と云う用語についていくつかエントリを書いた。それらはそこそこ読まれたようなんだけれど、じっさいにこのことばが使われることの意義を主張するひとたちからの反応はおおむね冷笑と罵倒、黙殺に分類できるようなものばかりだった。大枠でコミュニケーション、と云うものに関する話をしているはずなのに、だれもかれも「馬鹿は黙れ」。

このあたり例によって自分の愚鈍さと素朴さを認めることになるんだけど(毎度の話、恥知らずでごめんなさい)、要は彼らにとってコミュニケーションと云うのは、目的に向けてマネジメントすべきものなんだ、と考えると理解できる。ある種の当事者たちにとっての「科学コミュニケーション」の目的は、例えば科学の持ちうる意義や適切な用い方をおおやけに共有するところなんかにはないわけだ。「エア御用」と云うことばの用いられかたに対する異論なんて云うものは、その目的に照らすと嘲笑を浴びせて「馬鹿のたわごと」として無効化するのが適切であって、そこにコミュニケーションのリソースを費やすよりは、現在ネット上でそのことばを使いたがっているひとたち(たぶん彼ら定義の「市民」)をエンパワメントするほうが、その目的にはかなっている、と云うわけ。おそらく、少なくとも一部のSTS研究者やその周辺にとっては。

たしかにまぁそのへんは、自然科学のディシプリンにはないだろうなぁ。あったら、自然科学なんて信を置くに値しない、って話になるもんなぁ。
じゃあその目的はなにか、と云うのはあまりはっきりわからないのだけれど(ここで憶測を述べる気もないけれどね)。目的を(馬鹿にでもわかる水準で)あきらかにしないのも、彼らの「コミュニケーション」マネジメントの技法の一部なんだろうな、とも思う。……みたいなことを、こちらのはてなブックマークを読んで思ったりしたのだった。

ただまぁ彼らがことあるごとに寄ってたかってほのめかしていた「人文系の教養」とか云うのが、どうやらそう云う他者操作的な手法に用いるための代物のことを指していたらしい、と云うのはちょっとびっくりしたけどね(とか書くとまた馬鹿って云われるんだろうなぁ。几帳面に教えてくれなくても自覚してます)。