Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

失望と期待

onkimoさんの最近忙しくてブログを書けないのがと云うエントリを読んだ。

原則お書きになっていることに異論はなくて、だからこれから書くことは賛同でも反論でもなくて。なんと云うか、自分がどんなふうにとほほな気分になっているのか、と云う話。

その私が togetter記事に抱いた感想。それは、少数例だけから STSを使えないものとしてしまうのは、ちょっとどうかな、ということです。春日匠さんとあららさん、あと平川さんもかな、そんな少ないサンプルから STS全体を否定するのはやめた方がいいのではないか、と。

これってこっちのエントリのコメント欄でTAKESANさんにも釘を刺された部分、ではあるんだけど。
でも例えばこの状況で沈黙を守っている科学技術社会論の専門家、って云うのもどうなんだろう、と思う。そう云うひとたちの、専門職としての出番はいったいいつなんだろう。

いやもちろん、こんなふうに思ってしまうこと自体が無茶振りだって可能性ももちろんあって。学問は目先の実効性のみで評価されるべきものではないわけだしね。

たとえば、「エア御用」というレッテル貼りを支持するような発言をされた STSの研究者がいたのですが、その人が今後科学コミュニケーションについて何か言っているのを見ても、私は頭から受け付けないでしょう。

と云うか、現時点で表面に出て発言しているSTS関係者やその支持者のスタンスを見るかぎり、彼らの考える「科学コミュニケーション」って云うのが特定の「市民」と特定の「(非御用・非エア御用)学者」のみを対象とした(それ以外に対してはひどく冷笑的な)ものなんだな、と云う印象を受ける。で、それがこちらの認識不足(とか知能不足)によるものなのか、あるいは本来そう云う分野なのか、がわからない。

例えばぼくは、平川秀幸氏の「科学は誰のものか」について、いまから読むとひどく的はずれなレビューを書いている。いや、書いているときにも、なんか違和感があったんだけど。なんでそんなことになったのか。
ぼくは自分でふつうの市民だと思っているし(そりゃ世間並みよりもだいぶバカではあるみたいだけど)、だからこの本に書かれている「市民」に、自分が含まれている、と思っていた。でもじつはぼくはこの時点で、おそらくすでに平川氏によって(たぶん「エア御用市民」的な存在として)あらかじめ読者として想定されている「市民」の対象から切り捨てられてしまっていたんだよね。でもそんな含み、わからないよ(いや、お勉強すればわかるよ、って何人かのひとがブクマで教えてくれたけどさ。ふつうの市民であろうとするのも敷居が高いね)。専門家が新書を書くときには、それは原則として万人に向けて書いている、って思っちゃうじゃない。
金返せ、とか思う。それぐらいはいいよね? 書物のタイトルに対する読解力が足りない、とか云われるのかな?

とはいえ、私は STS 自体には期待しています。

例えばいま「エア御用」と呼ばれているひとたちも基本的には期待してるんだと思うし、ぼくも期待してるけどね。もしSTSと云うのが、ぼくみたいなのを社会の成員から除外しなきゃ成立しない分野、と云うわけではないのだとすれば。