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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

フィギュアスケート2011年中国杯(と云うか羽生結弦)

面白い大会だったし、書けることはいろいろあるんだけど(ソトニコワのこととかね)、結弦のことだけ書く。

気持ちが、ハートが先行して、フィジカルがそこについていく。そう云う選手だ、と云う印象はあった。

例えば格闘技の選手に、そう云うタイプはいる。そして例外なく、そう云う選手は強烈な魅力を放つ。玄人ごのみ、と云う評価はもらえないし、マスメディア受けも悪かったりもするかもしれない。それでも、金を払って生で観戦する観客の多くは、そう云う選手の活躍に会場で素直に歓声をあげる。

気が強い。勝負事で競るのが好き。採点競技であるフィギュアスケートに、男女を問わずこう云うタイプの選手は、少し珍しい。少なくとも日本の男子選手で、こう云うタイプはほかに知らない。でも今回の中国杯を見て、ちょっと理解が変わった。羽生結弦は、そう云う闘い方しかできないのではないか。

まっすぐな強い心は、ぽっきりと折れてしまうリスクと裏表だ。みずからの闘いをドライブするのがその心だけ、と云うのは、もちろん危うい。そして、その危うさそのものがその選手の魅力を構築する。

そこにぼくたちが見ることができるものが、比喩ではなくまさしく、その選手のソウルそのものだ、と云うことなのだから。

もともと、造形としては優しい顔立ちだ。

それがどうだ。SPを通して一貫した、かつて見せたことがないような凛々しい表情は。

出し惜しみをしない。ペース配分よりも、そのときの自分の闘争心を優先する。――もちろんそんな甘い発想で、グランプリシリーズに位置づけられるクラスの大会で勝つのは難しい。戦略的には。

だからどうした。

もちろんぼくは、どちらかと云うと日頃はクレバーな、完成度の高い演技をする選手を評価する傾向がある。でもいつも見たいのは、そこから滲みでてくる、あるいはそこを地割れのごとくに砕いて噴出するパッション、だ。

4位はもちろん見事な成績だ。最近までホームリンクが閉鎖していて、練習場所を求めて流離っていた選手としては。素晴らしいものを見せてもらった、とぼくは思っている。

ただ、ぼくたちがそこで満足するわけにはいかない。本人が満足していない以上は、伊達の野郎っこが「ここまでしかできない」みたいに踏んで、安っぽく褒め称えるわけにはいかない。

ロステレコム杯、そしてもちろん(まさに闘いの場である)全日本。今季、少なくとも2つの戦場が残されている。

ぶちかませ。