Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

「安全・安心」

まぁ「安心・安全」でもいいのだけれど。

なんとなくこの組み合わせで、まるで成語のように使われる用例を見かけるように思う。でも、このふたつのことばの取り合わせの意味を考えると、じつはよくわからなくなる。

そもそもこのことばが組み合わせとして用いられるのは、お役所言葉として流通しているから、だと思う。例えばぼくたちは日常「ICTを利活用する」なんてへんてこな云い回しをすることはあまりない。でも、お役所からお金をせびりとるには、この種のよく考えると意味不明なことばを使いこなす必要がある。お役所は「ICTを利活用」したり、「安全・安心」に貢献したりすることにはお金を出してくれるわけだから。

かつて「北海道の主要産業は公共事業だ」と書いたのは東直己だったけれど、多かれ少なかれ地方はどこも同じ状況で。云っちゃえば「復興」したところでそこに戻るだけなんだけど、被災地のビジネスはここ半年ばかり「どうやって御公儀から銭を流してもらうか」ってことにフォーカスしている状況なわけで、とまぁこのへんはあだしごと。

もちろん安心と安全は無関係じゃない。でも、組にして同時に語るようなものでもない。「安全」だから「安心」する場合は多いだろう。でも安心できるから安全だ、と云うことにはならない。

もうひとつあるのは、安全にしても安心にしても、ことばとしてはON/OFF的にしか使えないにもかかわらず、じっさいにはそう云う内容を意味していない、と云うこと。

「安全である」と云う言明は、厳密には100%安全であることを意味し得ない(すくなくとも自然科学をベースに考える限り)。「安全でない」も同様。だから、それらの言明に基づいた「安心である」(あるいは「安心でない」)と云う状況は、100%の根拠を持ち得ない。

「安全である」ことの根拠が自然科学であったとすれば、自然科学を疑う限り「安心」は手に入らない。根拠が宗教であったとすれば、その宗教を疑う限り「安心」は手に入らない。言明した科学者が、宗教家が「御用学者」だったり「カルト教祖」だったりする、と云う認識のもとでは、やっぱり「安心」は手に入らない。

「安全」が一定基準以下のリスクを意味することばでしかない以上、「安心」はそのリスクを判断したうえでの、やっぱり程度問題を勘案したものでしかありえない。「安全」は一定基準以下のリスク、と云うかたちでしか求め得ないし、「安心」はそれをなんらかの判断基準(それが自然科学的な蓋然性か、宗教的な合理性かはともかくとして)によって解釈した上にしか築くことはできない。

もちろん「安全」を演出することもできるし、それをベースに「安心」を喧伝することもできる。そうした営為のほんとうの中身を、どうやって見抜くのか。すくなくとも「安全・安心」をひたすらだれかに求めても、本来的な意味ではそれを手に入れるのは原理的に不可能だ、と云うことになる。いちどきに手軽に手に入る「安全・安心」なんて云うものは事実上存在しない。

まぁ、それでも求めてしまうのは人情としてわからなくもないけれど。

でもまずひとつあるのは、この種の空疎なことばを使うことで思考が規定されてしまえば、そこから導かれる結論も空疎にならざるをえないこと。もうひとつあるのは、「安全・安心」をセットで求めるのは、例えば東京電力に「もう一度『原発安全神話』で騙してほしい」と云うことを求めているのと変わりはない、と云うこと。このへんのことは、もうすこしひろく認識されてほしいな、と思う。