Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

当事者、アイドル、表現者

日本の芸能の一形態としてのアイドル、なんて云うものを語れるほど、ぼくはアイドルに詳しくない。その文化に接近していたのは大学時代だけで、就職してからはテレビを持たない生活をずっとしていたし。

どうしても音楽ヲタとしての本性がごまかせないので、アイドルが好きだった20年以上前でも、まずは受け入れられる音が伴っている、と云う部分ははずせない。昨今は当時アイドルに向けられていたミーハー根性がすっかりSCANDALに向けられているのだけれど、前提としてやっぱり彼女たちがどこまでもバンド(=音楽表現における主体)だ、と云うのがあるからちゃんと向き合える、と云うのがぼくのなかにあるように思う。
その意味で、いわゆる「アイドル」と云うスタイルに含まれる、ぼくが好きだった要素、と云うのはPIZZICATO FIVEによってほぼ限界まで実現されてしまった、のだけれど、たぶんこのあたり誰かの共感を得ようとしても無理だろうなぁ。

雑な云い方だけど、アイドルは夢を売るわけで。そこには受け手側との共同作業による絵空事の構築、と云う部分が欠かせない、のかも知れない。でもそこには、それと矛盾するような表現者としてのリアリティ、と云うものがかならずあるはず。
そのあわいを、どう捉えるか。立ち向かうのか、包摂してしまうのか。この面でたぶん、ぼくたちの時代以降のアイドルと云う文化は一定の批評性を最初から内包しているのだろうな、みたいに想像したりする(一種プロレスにも似てしまっているのかも。あ、だからももクロはああなのか)。

Dorothy Little Happyは、仙台で複数のグループアイドルを擁するステップワンのトップチーム。最近は全国的な知名度も多少上がってきているみたいだけれど、ホームはここ、宮城県 200人にひとりが死亡、または行方不明。
その当事者である彼女たちにこんなタイトルの、こんな歌詞の曲を与えて、うたわせる。表現を届ける者として現実に、自分たちの立っている場所に立ち向かわせる。プロデューサーである坂本サトルは、それが必要なことだ、と判断したのだろう(坂本サトルと云うミュージシャンに対するぼくの評価はここでは書かないけれど、このあたりよくも悪くも「わが軍」だな、みたいに嫌でも感じてしまう)。
自分の子飼いのアイドルに対する、一面ひどく残酷な行いだとも感じるし、どんなことを彼女たちに引き受けさせようとしてるんだ、みたいな反発も正直ある。でも(そこにあるあざとさまでを含めて)この場所、この立ち位置でしか成し得ない強靭な表現には違いない、と思う。

# ところでこの子たちのダンスって、歌っている部分ではアイドルらしくてファンが真似しやすい、単純で大きな振り付けが多いのだけれど、インストゥルメンタルのパートでは急に本来のダンススキルを見せつけるような剽悍な動きになる。

# このへんなんと云うか、獣神サンダー・ライガーが云うところの「ナイフを抜く」瞬間を思わせるんだよねぇ。