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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

タイミングとパッケージ(光文社新書「もうダマされないための『科学』講義」)

ひと/本

ご恵贈感謝。

もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)

もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書)

  • 作者: 菊池 誠、松永 和紀、伊勢田 哲治、平川 秀幸
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2011/09/16
  • メディア: 新書

 菊池誠再起動と云うエントリで書いている原発推進と反原発の蜜月時代は終わったと云うフレーズをもじって云うと、「ニセ科学ニセ科学批判の蜜月時代は終わった」のだと思う。いや、以前から直接対話を重視していたとか、そこにどうしても介在するコミュニケーション関連の諸問題について意識的であったひとについては、問題の外形はそれほど変わってはいないのだと思うのだけど。

いまはニセ科学については、こちらで書いたような問題が、どんなふうに言及しようと思ってもかならずのしかかってくる。それはかならずしも、たとえばぼくのようにある程度前からニセ科学の問題について議論していた人間だけではなくて、おそらくは現状において相当数いるはずの「適切に怖がる」ことの必要性についてあらためて意識し、そこに基づいてより日常に近い場で対話をおこなおうとしているひとたちにとっても。
この本は、そのひとたちにとって(そしてぼくたちにとって、仮にそれが「何度目かの周回」であろうとも)ある水準での基礎となりうるヒントを供給することのできる書物だ、と思う。

複数の、立脚点の相違する論者のテキストの寄せ集め、と云うこの本のつくりが、適切なのかどうか。
じっさいには、この本の内容はある雑誌の特集か、または増刊のような体裁であるほうが自然なんだろうな、と思う。ただし、それが新書というパッケージをほどこされていることがマイナスである、とまでは思わない(どうやら重版される程度には、この本は受け入れられているようだし)。買っているのは文字通りもうダマされないため「科学」講義を受けよう、と思った層(そして、それを理解して、自分自身、または周囲のひとたちの「日常」に活かそうとしている層)なのだと思うし、じっさいにそういった層にはある程度届いている、と云うことなのだろうと思うから。
そして(これから書くけれど)本書はその内容を理解すれば事足りる、と云う(だけの)ものではなく、そこを起点に必要に応じて立ち返る、読み返すべき内容を含むもの、だと思ったから。
lets_skepticさんが、この本の書評である『もうダマされないための「科学」講義』にダマされるなと云うエントリにおいて、記載されている内容の水準(あるいは方向性)のばらつきのようなものについて触れている。そのこと自体は同意できるのだけれど、逆にぼくはいまのタイミングで刊行される書物として、これらがひとつにパッケージされていることに意味がある、と思う。

冒頭に記載されている菊池誠のパートはある意味凡庸な印象があって、それはその内容が彼自身がつねづね口にしていることの繰り返しでしかないことに起因するのだ、と思う。もちろんそれは、「いつ、誰に語るか」と云うことを意識した結果だ。ニセ科学の問題にある程度の期間コミットしてきた論者ならだれしも身にしみているはずの「繰り返し語ること」の意義に対して、彼自身が忠実であろうとした、その結果がこの内容になったのだと思う。この内容がこの本に収められていることは、だから重要な意味を持つ。とりわけ終盤の「希望が科学の使い方をゆがめてしまう」以降の内容については、日常で「適切に怖がる」ことについてコミュニケーションの機会を持ちうるひとすべてにとって重要だ。

伊勢田哲治のパートは、この書物のなかでは比較的晦渋と云えるだろう(書き方そのものは模範的なくらいに平易、と云ってもいいと思うけれど)。それでも、シンプルに境界線が引けない問題について判断を下さざるを得ない状況においてどのようなスタンスを取るべきか、どのような角度から考えるべきかと云うことに関する示唆を、科学哲学と云う立ち位置から実践的に与えると云う意味で、この部分もやっぱり重要だ(とは云えまぁ、ぼく自身ももう数回読み返す必要があるなぁ、とか思ったりしているのだけど)。

もちろん、いま眼の前にある状況についてより直接的な情報を供給する、と云う意味で、まず求められるのは松永和紀によるパートと、片瀬久美子による付録、なんだろうと思う。これらはより具体的で、目前の状況について現実に即した考え方を供給する、と云う面で、現状ではよりリアルな意義を持つ。
ただ、そのような知識や判断を求められるのは、今後も含めると現状目前にすでに登場したことがらだけではないわけで(もちろん各論として、ケーススタディとしての意義は薄れないにせよ)。今後も新しい問題が発生しうる状況が継続していて(いや、じっさいにはもちろんこういった状況は何年も前からあって、その意味では本質的には変わっていないはずなのだけれど)、いずれにせよ今後においても各論的な思考と対処がまちがいなく求められると思われる状況において、立ち返って示唆を得るべき内容が、菊池誠伊勢田哲治のパートには収められている、と思う。
この書物がどのように読まれるか、と云うことについてはある意味わからないけれど。その意味で、菊池誠伊勢田哲治のパートは最初は斜め読み・読み飛ばしされてもいいのだろう、と思う。手元にあればそこに立ち返ることもいくぶん容易になるだろうし、それは今後直面しうる新しい状況に対処するためのひとつの指針として、あらためて活用可能なのだから。

さて、言及していないのは平川秀幸による書き下ろしのパートとなる。
ぼくは平川氏の科学は誰のものか―社会の側から問い直すを読んでいて(レビューはこちら)、基本的にはその延長上にある内容かな、みたいに思った。違うのは背景、と云うか状況で。

まとめしか読んでいないけれど、最近はtwitterなんかで大阪大学コミュニケーションデザイン・センターに所属する科学技術社会論の研究者と、菊池誠や片瀬久美子のようなニセ科学の問題にコミットしてきた科学者との議論なんかもあったりしたようで。本書の構成では各著者のパートがある意味それぞれほかのパートと遊離はしているのだけれど、このパートはやっぱりちょっと性格が違う(云ってみれば、このタイミングで直接的に読者が活用しうることを書こう、と意識して書かれたものとは読みづらい)。で、ちょっと思い当たったこと。

科学ライターである松永和紀を例外にすると、あとの4人の著者はいずれもアカデミア内の人間だ(片瀬さんについてはいまどのような立場にあるのか知らないけど)。そして、本書の内容のようなことを論じるのは、その本業から多少離れた、アウトリーチと呼べる活動と云ってもいいと思う。平川氏を除いて。
平川氏にとって、サイエンスコミュニケーションはそれ自体が本業であり、研究対象だ。なので、この状況下でどのように科学がアカデミア外の市民に用いられるか、と云うのは(このことばは本書の伊勢田氏のパートで知ったのだけれど)モード1科学的なアプローチの対象なんだろうな、と思う。なので彼にとって現状は(この書き方から皮肉や当てこすりを読み取られると困るのだけど、あえて)その本業における研究上の好機、とも云える状況であるわけで。

もちろん平川氏が今後にわたってよりよい科学技術コミュニケーションが行える状況を希求し、そこに直接的・間接的に貢献していこう、と云う姿勢を示していて、実際にそのような活動を実践しているのは事実で、そこになにか疑義をさしはさもう、と云うのではないのだけれど。専門職としての科学者にいったいなにができるのか、と云うことを意識して、その立場からどのような言動を行うかと云うことを基本的な問題意識として持っている種類の科学者たちとは、その行動や状況把握に温度差が存在するのは当然なのかもしれないな、みたいにも思う。