行動と意義
今週末の仙台はジャズフェス、なんだけれど、その真っ最中にまさにその会場(とは云え街の中心部はもれなく会場になるわけだけど)で、反原発のデモが予定されているらしい。それもふたつも。こいつらとこいつら。
お願いです。勘弁してください。
そりゃ今年のジャズフェスも例年のごとく70万人やそこらの人出はあるだろうさ。東北六魂祭の顛末からしても、もっと大勢のひとたちが見に来るかもしれない。あえてこの日、この場所を選ぶのは、そこを当て込んでのことなんだろう。そこはわからなくもない。
でも、そのひとたちになにを伝えたいんだ? この日に音楽を奏でること、それを聴くことを楽しみにしてきたひとたちに。そしてその場を今年もつくることに努力してきたひとたちに(一般的な反応についてはTogetterにリンク)。
前者はどうやら主催が、いまだに東北大学に巣食っているらしい某極左団体らしい。後者はなんか、ラヴ・アンド・ピースな方々のよう。
反原発を訴えることに異議はないし、デモって手法を否定するつもりもない。でも、音楽に接したいひとたちでごった返す日に、わざわざそれを行う意義ってどこにあるんだよ。
たぶんこのひとたちは、自分たちの意見に同意してくれるかもしれない、これから力になってくれるかもしれないひとたちのうちのかなりの割合を、この行為で完全に敵にする。それでもかまわない、と云うのなら、そもそもこのデモの意義がどこにあるのか、と云うのが問われることになる。
震災以降、自分の内的な問題もあって、ぼくにはあまり語れることはなかった。でも、比較的頭を巡らせて、繰り返し書いていたのは、音楽をはじめとするさまざまな表現行為が、この状況でどんな意義を持つのか、と云うこと。
演奏すること、聴くことを通して、ぼくたちは音楽を楽しむ。音楽を楽しむことができる、そこからなにごとかを受け取ることができる、と云うことが、ぼくたちがこの状況を前にそれでもひととして立ち居振る舞うにあたって、どんな意味合いを持つのか。芸術になにができるか、と云う言い古されてかびの生えた問いに、どのような答えを返しうるのか。
そして、まさにその現場を踏みにじるような行為が、どのような意義を持ちうるか。
ちょっと感情的になる(まぁいつも感情的ですけど)。
演奏している側には、楽器を流されたひとも、メンバーを流されたひともいる。聴く側にも、去年は隣で一緒に聴いていたひとを失ったひともいる。それでも、音楽の場を共有しよう、とするのが今年のジャズフェスだ。他の地域からの参加者にしても、その裡に悼む心、元気づけようとする思いを秘めずに参加するひとはいないだろう。
せめてそう云う時間を、この街に許してくれないだろうか。
こんなことを云ってやがる。
【SL広場】
通過後
左折→南下しながら
※
この辺りでは
音♪鳴りもの♪
OK!
そこもステージだ。邪魔するな。
追記: OSATOさんも同様の趣旨のエントリをお書きになっています。
ぼくは「TPOをわきまえろ」
みたいに云うつもりはないんだけど、わきまえないことで目的が果たせないことはあるんじゃないか、みたいには思う。