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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

紋切型による(一種の)自己存在否定について

九州大学の古賀徹准教授の非科学的な非科学狩りと云うエントリを読んだ。

先に言い訳しておくと、ちょっと感情的になりそうなのであまり親切に、丁寧に書けないと思う。

科学的に効果が証明されていない物質を摂取することで、より適切な手段がとられないなど、別の害が生じる可能性は存在する。しかしそれは、二つの手段のうちどれが可能性としてより適切かという比較の問題である。前者より効果的だと予測される手段があるのにそれが採用されていないという批判なら分かるが、前者が「非科学的」だからその手段をとるべきでないという批判は、多くの場合それ自体非科学的だといえよう。

このひとは、ではどうすれば二つの手段のうちどれが可能性としてより適切かという比較の基準を共有可能にすることができる、と考えているのだろう。「非科学的」だからその手段をとるべきでないと云う基準を置くことは、まさに個人的な経験の範囲を超えて共有することのできる判断基準に従おう、と云うことなのに。

と云うか、このひとの使う科学的・非科学的ってことばは、どんな意味を持っているのかな。なにかしらパーソナルな意味合いなんだろうか。

効果の科学的な証明とは、数多くの被験者に物質を投与して、偽薬の投与群に比べて有意な効果が得られることを「統計的」に判断するだけである。

だけであると気軽に書ける以上、その意義をそれほどは認めていない、と云うことなんだろう。と云うか、その意味するところについてそれほど真剣に考えていないから、こう云うことが書けるのだろうけど。

とすれば、科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することはできないことになる。科学的に効果が証明されていない物質を摂取して、それでぴんぴんになってしまう個別の可能性を、科学的証明は排除できない。

まさかアカデミシャンに「悪魔の証明」と云う概念を理解していない人間がいるとは思わなかった。と云うかこのひとは科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判する行為がどのような意味合いを持つのか、と云うことについてまじめに考えてから書いているとは思えない。

そこでさまざまな民間療法に当たることにした。刺さない針、気功、体操、キムチ納豆、イメージトレーニング、ハーブ、ドイツの謎の鉱物、ありとあらゆるものを試した。そうすること数年、左耳はすっかり健康になった。どれが利いたか分からない。

時間と余裕のあるひとはそうやって人体実験をすればいいと思う。自分自身について云えば、それは愚行権の範囲だ(他者に勧めるようなことがあれば、その範疇を超える。自分のこどもなんかも含めて)。ついでに丹砂なんかも試せばよかったんじゃないかな。不老不死になったかもよ。

でも、たとえばいま子供たちに米のとぎ汁乳酸菌だのEMだのを飲ませようとしているひとたちの置かれた状況と、(それが「個人的に」どんなに切実であったとしても)その時点で古賀さん自身が置かれた状況をごっちゃにするのは、いくらなんでも想像力不足なんじゃないかな。
わからない。このひとは自分の研究していること、教えていることに一定水準以上の普遍性があることを、どのような視点が担保しうると考えているのだろう。それとも、そのことについて意識的な視点を持たないまま、あるいはそのような視点が不要だと考えたまま(要するにそこを考えるのは自分の仕事じゃないみたいに思いながら)アカデミシャンの場所にいるのだろうか。
そのような学究のありかたがあることを、それを自らに許容するアカデミシャンが実在する可能性を、どうしても理解できない。

まぁこの准教授がここを読むことはないだろうけど(twitterでもそうとう呑気なことをおっしゃっているしね)、とりあえず科学的に効果が証明されていないものを摂取する人を「非科学的」だと批判することがどのような切実さのなかで行われているのか、と云うことを、月田陽三さんの母親の特権意識と父親の不在と云うエントリ、およびどらねこさんのとどけたいことばと云うエントリに類例としてリンクを張ることで示しておく。このおふたりとも、例えばいまのぼくでは担いきれないような切実なことばを、苦しみながらも届けようと努力されている。この営為を、科学の観点から一刀両断、みたいな紋切り型で切り捨てることができるのだとすれば、それはそれで一貫していてあっぱれ、とも云えるのだろうけどね。アカデミシャンではなく、アーティストとして。