Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

吸血自慢

bem21stさんのポジショントーク/都合により市場原理教の信者を名乗る人たちと云うエントリを読んだ。

で、あんまりまとまった論ではないのだけれど、ちょっと感じたことを書いてみる。直接のbem21stさんへのレスポンスにはなっていないので、トラックバックは送らない。

市場におけるプレイヤーに、ほんらい市場原理主義者なんてのはいない。当たり前の話で、勝とうとして闘っているプレイヤーが、完全に公平なルールなんかを求めているはずはない。求めているルールは、自分だけが勝てるルール。これは簡単に実感できるものだと思うのだけど、フェアなルールと云うのは自分が勝てるルールのことで、フェアネスのことなんかは自分がルール上の制約によって勝てない状況にあるときにしか意識されない。

勝っている人間はいまのルールがフェアだと主張する。負けている人間はアンフェアだと訴える。すべてはその時点で置かれているポジション次第。ポジションに無関係にフェアネスを求めることができるのは、プレイヤーじゃない立ち位置にいるものだけ。

でもまぁ、ぼくたちにはみんなお金が必要だ。じゃ、「プレイヤーじゃない立ち位置」はどこにある?

こう云う状況で勝つためには、ルールに最適化したプレイをおこなうのが近道。これってスポーツなんかでもおんなじだよね。ルールに反すると解釈されない範囲で、いちばんずるいことをしたプレイヤーが勝利を得る。で、たとえば村上だの堀江だのって手合いはそれをしようとしたわけで、そのこと自体はなんら責めを負うべきことではなくて。だって、そう云うゲームなんだから。

でも、それだけでは勝ち続けることはできない。

ほんとうに必要なのは、ルールを決め、運用を決めることのできる場所に立つこと。フェアネスとはなにか、を決めることのできる場所に立つこと。ルールに従った結果として自分が勝つことになる、そのルールをフェアとして認めさせることのできる場所に立つこと。

でまぁ、ルールに従ったゲームである以上、結果を計測するための基準が必要で。市場、と云った場合には、それはもちろん金。プレイヤーはプレイにおいてはつねに拝金主義者だ(それがどんな発現形態をとるか、はまぁ市場によってもプレイヤーによってもさまざまだけど)。そこにはほんらいモラルなんて不純なものが入り込む余地はない。

他者を害してそのうえで成り立つような勝利は、それはもちろん非難される。非難されるけれど、それは市場のルールによって、ではない。市場の内部にはそんな機能まではビルトインされていない。まぁこのへんは微妙で、市場の根底にいまもプロテスタンティズムが流れていると仮定すればそこにはそのフェアネスに倫理を付け加えることのできる源泉を見いだすこともできるのかもしれないけど、まぁうちの国の市場の根っこにそんなものがないのは確実だし、異教徒に対するふるまいに同種の倫理が適用される理屈もないわけで。

金ってのは抽象化された純粋な「価値」で、なので堀江がかつて語ったとおり無色透明で。なので、その重要な機能のひとつに、その「価値」が生み出されるに至るまでの経緯を不可視化する、と云うのがあって。だから、金のためにしあわせを奪われるひとや、殺されるひとがいる。

ぼくらは平和な日常のなかで経済活動をおこなうにあたって、使っているお金がだれかの不幸や死によって生み出されたものだ、なんてことは意識しない。良心の呵責は感じない。でもそれは、ぼくたちの使っているお金が倫理的に問題のない源泉を持っている、と云うことは意味しない。単にそれは不可視で、そしてぼくらが必要な分だけ充分に鈍感なだけだ。

WiredのぼくのiPhoneが17人を殺したのか?と云う記事にあるとおり、ぼくらはおおむね人殺しだ。だからほかの人殺しを非難してはいけない、と云う話にはならないと思うけれど、すくなくとも自分たちが勝者の立場にいることをもって、フェアネスにのっとった「市場原理主義者」としてなにかしら正当化されている、みたいな態度をとるのは、けっこうこっけいな姿だと思う。それは(ルールによって可視化されていないだけで)啜った生き血の量を自慢している姿だ、とも云えるのだから。