Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

結論なんてないのだけれど

Asahi.comに掲載された、自粛、強要される空気 「みる・きく・はなす」はいまと云う記事を読んだ。

わたくしごとながら5/8の日曜日の晩はSCANDALのライブを見にZepp Sendaiに行っておりました。もう自慢じゃないがここしばらく抑圧気味だったミーハー根性が炸裂中で、ある意味地震に関係なく不謹慎かもですが。

でもって炸裂中なわけなので、いとしの小娘どもの行状には異様に詳しい。なのでこいつらが自粛だの不謹慎だの云うことばを前にどれだけ悩んで考えて、どんな筋道を通って「音楽屋は音楽やってなんぼ」って云うあたりまえの結論にたどり着いたか、なんてことを知ってたりする(だから、こちらの記事なんかで報道されたこいつらのことばが、まったくクリシェなんかじゃないってことも知っている)。

震災直後に被災地近辺でライブをやるのはもちろん怖いだろう。場合によっては、観客をも巻き込むことになるわけだから(それでも決行したのは、キティ魂だったりするのかもしれない)。震災後のZepp Sendaiにおける一番乗りは4/27のナイトメアに譲ったものの(とは云えロコである以上ナイトメアも譲れないところだろう)、AI・P.T.P.に次ぐ4番目は充分に腹を据えた選択だったんだと思う。

表現にたずさわる人間が期せずしてそう云う選択を迫られる。今回、震災後に、表現にたずさわるひとたちそれぞれに、そう云う局面があったのだろう。そのこと自体がいいことなのかどうか、じつのところはよくわからない。
ただ表現者は、そのことを受け入れるべきではない。だれかを無用に傷つける必要はもちろんないけれど、その場で自らなすべきと思った表現行為をなすことに、ためらうべきではない。

自粛の強要は暴力に等しい

上でリンクした記事に記された、ファンキー末吉のことばだ。そもそも自粛の強要と云うことばそのものがこのわずか5文字の中にじつに重厚な滑稽さを含んでいる。その滑稽さの刃は、もちろん強要する側につきつけられているわけなんだけれど、どうすればそのことに気づいてもらえるのか、ちょっとわからない。

こちらのエントリに、3/20広島Music Cubeに出演した怒髪天の動画を貼りつけた。このときに増子の旦那(同世代なので「兄ィ」とも「増子さん」とも呼ばない)は、「こんなときに不謹慎不謹慎って人の職業なんだと思ってんだ!頑張れば頑張る程不謹慎じゃねえか!俺たちが元気なくしてどうすんだよ、東の奴ら支えられねえだろ!やるしかないんだよ!」ってステージの上で口にしたらしい。
正論中の正論(プラス無駄な男気)。

こちらのエントリで、斉藤和義についてひどくきついことを書いた。でも実際のところ、たとえば彼の行動が理解できない、みたいなことはまったくないのであって。なにしろ彼も同世代だから。
辛辣な皮肉と風刺の詰まった替え歌、ってのをいっぺんやってみたかったんだよね。キヨシロー、かっこよかったもんね。

でも、ぼくはこのエントリのコメント欄に自分で貼りつけた菊地成孔「歩いて帰ろう」のがよくね?と云う日記にある、「普段通りの音楽を続けるのが一番のメッセージである」「平時から、芸術というものは、有事の備えになっているべき」と云うことばに、よりいっそう強く共感するんだ。
そして、大友良英の講義録、文化の役目について:震災と福島の人災を受けてにある、このことば(ぼくは残念ながらONJO / ONJE / ONJQを聴く機会はまだ持てないでいるのだけど)。

正面から向かう、という話にもう1回戻ると、今の現状をどうとらえるか。解釈なんかできないよ。オレは、非人道的だ、ということと、これは不条理でコメディのようだっていう解釈しか、今はできません。だけれども、そこから何かを表現しないことには始まらない。

漠然と、この状況と表現、と云うものについて考えてきたけれど、べつだんなにか結論めいたものにたどり着いたわけではない。このエントリにも結論は置かない。ってえか、おいらべつにSCANDALのライブに行った自慢をしたかっただけだし。なんてね。