Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

だれかの血

なんだか行きがかり上、へんに「3/11以降の表現者たちの行動」みたいなものが気になっている。いや、あらゆる芸術的営為に対してほぼコンシューマでしかないぼくがそんなことを気にしても本来しかたがないんだけどね。

でまぁ、小沢健二町に血が流れる時と云う作文を読んだわけだ。

大学に5年通って、卒業して東京に就職した年(の、いま調べると9月)に、CAMERA TALKがリリースされている。その意味で(ぼくのほうが若干年上ではあるけれど)小沢健二はまぁぼくらの年代のミュージシャン、と云ってもいいんだろう、とか思う。好きとか嫌いとか単純に云えないような若干複雑な、でもなんかあんまり「赤の他人」じゃないような、同じ場所で同時進行するべつの事柄にかかわってきたような、妙な距離感。

で、そう云う距離感に担保されているような、なんとなく微妙な信頼、みたいなものがある。いけ好かないけどそのことばは傾聴せざるを得ない、ちょっと嫌な友人、みたいな。

 だから、ちょっと気をつけていた方がいい。
 いま、いきなり世の中が、違う世の中になったわけではない。
 真実や嘘や、善意や策略や、何だかんだが入り混じった世の中だということは、いつもと変わらない。

いま日本中に悲しみがあふれ、そして善意と労りが満ちている。たとえばそこに欺瞞がある、偽善がある、と云うようなことをあげつらうつもりは、ぼくにはまったくない。

ただ、いまはぼくらの目に映らなくても、いつも通り世の中には、善意も策略も、真実も嘘も、美しさも汚さも、混じっている。欺瞞だって偽善だっていつもの世の中とおなじだけの量は混ざっているだろうし、それは不思議でも、嘆くべきことでもない。

たとえばこう云う状況で、藤沢数希のような立ち位置の人間がなにかもの申す。
もちろんそれはポジショントークであり、その発されることばはもちろん彼(それは実在の彼ではなく、抽象的な「彼のような存在」かもしれないけど)になんらかの利益をもたらすことを最終的な目的としている。そしてその利益はゼロサムを前提とした利益であり、かならずだれかの不利益と結びつく性格を持つ(差し引き純増か純減か、と云う程度のぶれはあるけど)。

でも、それを「こんな状況下で」みたいな角度から非難するのは、違うと思うのだ。彼は金融業界で働く人間であり、なので彼のような人間にみられる振る舞いのアモラルさは、その職業的営為の本質から生み出されるものだ。それはこれまでも世界のなかに存在したし、これからも存在しつづける。いまはただ単にそれが(そこにある闇が)くっきりとしたコントラストのなかで目立つ状況にあるだけだ。まさに、強い光の中で、影も強くなると云うだけの話。現況において、にわかにやさしくなっているぼくたちにとっては、その振る舞いは強い違和感を伴って映るけれども、べつだん彼がこの1か月やそこらで突然邪悪になったわけではないのだ。

いやまぁべつだん藤沢氏を糾弾したいわけじゃなくて(モラルを論じることが意味をなすのは、そこにモラルが存在しうる可能性がある場合だけだ)同種の行動原理に基づく行為は変わらずこの世界に存在している、と云う話。
ぼくらの日常が遠からず戻ってくることを、ぼくは願ってやまない。そしてその日常のなかで、たとえばある種のアモラルさの存在について、これからも考えていこう。継続的に。