Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

誰に向けて、なにを、誰が

斉藤和義とか云うミュージシャンがうたっている「ずっとウソだった」と云う曲を聴いた。

個人的にはロックを聴く機会と云うのはずいぶんと減っていて。

自分の出身地の悪口を云うようでなんか居心地がわるいんだけど、そもそもロックみたいなかっこわるい音楽を聴きつづけなきゃいけない理由なんて云うのはひとはそれほど持ち合わせてはいない。それでもそのなかに時折垣間みることのできる、なんと云うか刹那のかっこよさ、みたいなのを探すのがおおむねロックを聞く理由だったのだけど、それも(とりわけBlankey Jet Cityが解散して以来)とりたてて個人的には必要なものではなくなっていて。まぁそれでも本籍地には違いないので、ロック的なイディオム、みたいなものにはそうとうに敏感なのだけれど。

なにが云いたいかと云うと、世に云われる「これはロックだぜ!」みたいなのは、もう特段褒め言葉には聴こえない、と云うこと。この云い廻しが意味を持つのはたとえばマーティ・フリードマンみたいな使い方をする時だけで、そうでなければなんと云うか空手形みたいな、勢いだけの空疎なことばにしか感じられなくなっている。

で、個人的な実感としては、これは自分が歳を取ってロックについていけなくなったんじゃなくて、ロックってジャンルそのものがすでにおいぼれちまった、ってことなんじゃないかと思ったりする。

で、斉藤なにがしの歌なのだけれど、どうもこれがだれに向けて、なにを伝えようとしてうたわれたものなのかがよくわからない。

すなおに聴けば、電力会社や政府の云うことを丸呑みにしてきて、これまで自分の頭で考えることをしなかった間抜けな中年男が自分の愚かさ加減を自嘲するうたに聞こえる。でもこの斉藤なにがしとか云うミュージシャンは、どうやらそれなりに原発をテーマにした曲なんかを発表してきたりもしているようなので、こう云う聴き方は違うのだろう。

だとすれば、この曲にある皮肉とかユーモアとか云う要素は、自分以外の「自分の頭で考えることをしなかった間抜けな連中」に向けられていると云うことになる(そうとしか聴こえない。政府や電力会社の悪口を叫びたいだけなら、こんなまどろっこしいことをする必要はないだろう)。要するに事が起こってしまったいまの時点になって、「それ見たことか」的にうたってみせている、と云うことだ。

そんなものがロックなのか。くだらない。ぼくがロックを聴かなくなっていたのは正解だったみたいだ。こんなものは、(まだしも笑える、と云う一点のみにおいてだけでも価値を持つ)長渕剛の「散文詩」とやらにさえ及ばない。

ただ、もっと許容しがたいのは、こう云うものをロックと呼ぶような連中には、この斉藤なにがしの歌と、かつて忌野清志郎がうたった歌とが同種のものに聴こえるらしい、と云うことだ。つまるところいま「ロック」とやらを聴いている連中は、このふたつのあいだにどれだけの遥かな距離が存在するのか、と云うことさえ気付くことのできないような耳を持っている、と云うわけだ。

寝惚けるな。自分たちのことを当事者だと考えることができない、そのおまえたちがクソだ。それもたぶん、自分たちのことを「クソだ」と自覚して自嘲することさえできない、クソ以下のクソだ。

たとえば、佐野元春と云うミュージシャンがいる。彼が身にまとわりつかせているうさんくささ、マーケティング臭のようなものに、ぼくはずっと抵抗感を持っていた。それこそ彼がデビューした当時から。それでもその嗅覚、そして本質にある真摯さみたいなものに対する漠然とした信頼は、淡いながらも揺るがずにほそぼそと抱きつづけてきた。そしてたとえばその彼が大地震の2日後に発したメッセージは、誰に向けて、どんなことを伝えようとしたメッセージだったのか、と云うことをぼくは知っている。誰かを責めればことは済む、みたいな他人事めいたことばではなく、それは表現者がその受け手に向けて、自分がそばにいることを、終わっていない事象のなかでそばにい続けることを表明したことば、だったことを。

もう、大地震から1か月。

そのうち馬脚を顕す連中が出て来る頃だと思っていたけれど、その読みは間違っていなかったみたいだ。憂鬱な話だけど。