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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

効果と責任

軽薄な店主さん(?)の作用機序不明と云うエントリを読んだ。
エントリのとっぱなにWikipediaの「ホメオパシー」の項へのリンクが張ってあるので、(信用するかどうかはともかく)ホメオパシーに関連してどんな論点が存在するのか、と云う部分についてはざっくりとは踏まえたうえでお書きになっているんだろう、とは思うのだけれど。

私の考えは「西洋医学だろうが、東洋医学だろうが、鍼灸治療だろうが、ホメオパシーだろうが、民間療法だろうが、真に正しく人を救えるのなら良いんじゃない」である。

まぁもちろんこのお考えに異論なんかない(あろうはずもない)。論じるべき部分があるとすれば、それは真に正しく人を救えると云うのがどう云うことか、と云う、じつはかなり難しい部分だったりするのだけど。

だが、現代医学を代表する西洋医学の分野でも「信じる者は救われる」のだ。この「信じる者は救われる」部分こそが、ホメオパシーの、民間療法の、作用機序の最大の部分なのでは無いだろうか?

民間療法一般についてはかならずしもそうは云い切れないと思うけれども、ホメオパシーに限って云えば、そこに効用があるとすれば(原理的に人体の物理的側面に対して一切影響し得ない以上)そのようなものでしかありえないのはまぁ確かだ。

例え作用機序云々とは無縁でも、純然とプラセボ効果だとしても、本人の望む効果を示すなら良いのではないかと思うのだ。

もちろんそこに生じるのが本人の望む効果であれば問題はない。ただ、プラシーボ効果はそんなに都合よく望んだとおりに発動させうるものではないし、そうそう容易にコントロールできるものでもないわけで。本人の望む効果が得られない場合はどうなるか。

ぼくたちは「あかつき療術所」問題の経緯を知っている。ホメオパシーを信じたために本人の望まない結末に至った例については、うちのブログでもこちらのエントリのコメント欄で教えてもらった。本人の望む効果が得られなかったひとたちのリストも存在する(kataseさんによる日本語訳、ホメオパシーによる被害者の情報にもリンク)。

もし、伝統医療(ホメオパシー・民間療法・鍼灸治療)の効果の根源がプラセボ効果なのだとして、この望ましい効果を生む背景は独自の体系への信頼感であろう。

シンプルにそう云うものではない、と考えられるような研究もあるのでそうは云い切れない部分もあるけれど、おっしゃる信頼感と云う部分がまったく関係していない、と云うことはまぁないだろう。でもその信頼感のもたらす効果について、施療する側がどれだけ責任をもってコントロールしうるものなのか。

裏を返せば、現代の医師はプラセボ効果を最大限に発揮出来る環境にある訳だ。勿論、現にプラセボ効果に期待した治療を多く行っていると思う。

前半には同意できるけれど、後半には同意できない。なぜか。治療効果を期待するにはその効果はあまりに制御できず、責任を負って効果的な治療をなすためにはとうてい頼れるようなものではないから。

通常医療の医師によるプラシーボ効果の利用については、最近は一部で多少活発な議論がある状況にあるけれど(kikulogのプラセボと云うエントリにリンク)、そこでもなんらかのポジティヴな効果を期待して利用する、と云う選択肢は最初からでていない。そんなことが期待できるものではないのだ。是とする立場でもせいぜい、「アクションを起こさないことによるネガティヴな影響を回避する」と云うあたりが限界で。

じゃあ、せいぜいいってもそれくらいしか期待できないホメオパシーを施療する側は、どんなスタンスに立っているか、って?
もちろん、一切は利用者の自己責任として、自分たちはまったく責任を負おうとしない、と云う卑怯者の場所に立っているのですよ。真に正しく人を救えなかった場合でも、みずからの責任、とすることはないわけです。こっちこっちこっちこっちこっちで書いたみたいに。

でまぁ、通常医療の医師がそんなようなスタンスで医療行為に臨むことを許容するのなら、軽薄な店主さんがおっしゃるようなプラセボ効果も最大限に活用する更なる工夫をおこなっていくことも可能になるのかなぁ、みたいに思う。そんな無責任なお医者さんが世の中に増えていくのは、ぼくなんかは絶対にいやだけどね。