コミュニケーション(笑)
kasokenさんのモヒカン族と科学原理主義と云うエントリを読んだ。
ちなみにぼくはこのかたの著書を(自腹で買って)読んでいて、そのときのレビューはこちら。
「いわゆるモヒカン族と科学原理主義(ここでは疑似科学叩きに懸命な人としておく)は異なるクラスターだという感覚があるのだけど、自分にはその違いの要素が見いだせない」
まずなんで疑似科学叩きに懸命な人
を科学原理主義
と呼ばなきゃいけないのか、なんのためにそう称するのかがよくわからない(でもどうしてもそうお呼びになりたいようで、難しいから安易に使ってはいけない
とかいちおう、括弧付きにしておく
とかしきりにエクスキューズをつけながら最後までお使いになっている)。よくわからないけれど、科学原理主義
と云うことばは(「科学教徒」とおなじく)漠然とした揶揄をこめてレッテルを貼る以外の用例をみたことがないので、疑似科学叩き
と云うフレーズと組にしておいてそう云うニュアンスをまずは漂わせておく、と云う、コミュニケーションをなりわいとするひとならではの高度な技巧なのかな、とも思う。ことばの用法に強烈な違和感を感じるんだけど、それはぼくがろくに空気も読めないコミュニケーション弱者だからだ、と云うわけ(でもぼくは自己認識では科学原理主義
でだけはないはず、なんだけどなぁ)。
で、この文章、感覚がある
の主語はだれなのかが読み取れなくてちょっと読解に苦労した。でもこれ、感覚がある
も見いだせない
も主語は自分みたい。要するに、自分はこう感じるんだけど、どうして自分がそう感じているのかだれか教えて、みたいな話なのかな。
まぁそんなことはよくて。
疑似科学が流行すると、専門家はひたすら批判するが、その試みは成功しているとはいえない。
いや、だいたいの専門家
はひたすら批判する
ようなことはないんじゃないかな。むしろ、ほとんどの専門家は口を開かないと思う(なので菊池誠や天羽優子が目立つ結果になる)。それこそコミュニケーションの文脈
を重んじて、空気を読んで黙っているのが、ニセ科学に接した時の科学の専門家にみられる一般的な態度なんじゃないかな。ある意味そのふるまいが専門家の専門性の源泉をみずからつきくずしている部分があるんじゃないか、とか思ったりもするけれど(その意味では自業自得)。
「科学原理主義」(いちおう、括弧付きにしておく)の人たちは、「啓蒙」なり「攻撃」なりを武器として「疑似科学を信じている人たち」に対応している。
まったく意味がわからないのは、たぶんさっきも書いたようにぼくがろくすっぽ空気も読めない読解力に欠けたコミュニケーション弱者だからなんだろうな、とは思う。ただ、「啓蒙」なり「攻撃」なりを武器と
する、ってあたりはほんとうにわからない。
なんのための、なにを目的とした武器
なんだ?
このひとの揶揄する「科学原理主義」
のひとたち(ここで何度も表明しているようにぼくはむしろ月の暗い部分に眷属を持つと自認している人間なのでとても不服なのだが、このかたの定義に準ずるとぼくもそこに含まれることになるのだろう)は、なにを目的に「疑似科学を信じている人たち」に対応している
とお考えなんだろうか。
客観性あって初めて、自分の滑稽さを笑えたり、ユーモアが生まれますからね。そして、残酷なまでの客観性って実に痛々しいんだけど、その痛さを引き受けていない人は端から見ていると痛い。
貧弱な読解力に鞭打って必死になって文脈を読み取ると、この部分はつまるところ「科学原理主義」
の連中は客観性
を欠いているので痛い
って云いたいんだろうな、とか思う。違うのかな?
違うとすれば、豊富なコミュニケーション能力を持っていて空気を読む能力に長けているひとには、この文章から違う意味が自明に読み取れるのだろうか。
最後のところだけ反論しておく。ぼくは「科学原理主義」
な輩かもしれないけど(くどいけどめちゃめちゃ不服ではある)、たとえばこのエントリのような、「空気を読まない」反論が傍目にとても「痛い」ことは自覚していますよ。コミュニケーション能力に長けた方々による、「痛さを自覚して黙れ」的な空気の醸成をあまり愉快に感じないので、黙っていられないだけで。