Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

Baby Loud Rock (praisin' SCANDAL)

さて、ここから先に書かれていることは小汚い中年のおやじが曝け出した軽薄でミーハーな心情を加齢臭あふれる大仰な理屈で飾り立てたもの。構えだけ大袈裟で中身がない、やすものの天ぷらみたいな文体からは80年代的な、なんと云うかラメと人工調味料を連想させるような嫌ったらしさを感じ取るかたもいらっしゃるかもしれない。

率直に云って、このエントリのこの先はそう云うものになっています。読後の批判は受け付けません。警告終了。

ガールズ・バンドの系譜

系譜なんて書いたところでそんなの詳細になんか知っていやしない。ランナウェイズの時代はこどもだったわけで、あとの時代もその場その場ではやった曲が聞こえてきただけ。女性のロック・ミュージシャン、みたいに云った場合には(当然のごとくジャニスを筆頭に)絶対に忘れてはいけない、そもそも忘れられないような名前がいくつも挙げられるのだけれど、バンド、と括った場合にはそれなりの数を思い出すだけでも苦労する。
そう云うわけで、史上最高のガールズ・ロックバンドはなんだ、みたいに問われたときに、回答にあたってぼくにはほとんど躊躇の余地が与えられていない。

ゼルダ

「日本最古のガールズ・ロックバンド」説はぼくがまだ学生のころから唱えられていた。社会人になるころには、「世界最古のニューウェイヴ・ロックバンド」説が浮上していた。時代時代で大きくスタイルを変えながらも(この柔軟性そのものがゼルダのカラーで、その存在の重要さの根源だった、と思ったりもする)結成から解散までおそらくは日本のロックの骨格における重要な1本を担いつづけた、女性によるロックバンド。
そしてひとつ、別の問いを出してみる。はたしてゼルダは「ロック」を演奏していたのか?

ロックは死んだか? だったらいつ?

ロックバンドが演奏する音楽はロックか?
なんだかいくつかの意味で死ぬほどくだらない問いで正解なんかわかりゃしない。ロックバンドがやってんだからロックだろう、とか、じゃあロックバンドってなによ、とか。どうでもいい。

ただ、ぼくが音楽を愛好しはじめた10代後半ぐらいからは、ロックを演奏するなんて云うのはロックバンドのすることじゃなくなっていた。と云うか、ごろりとした塊のような「ロック」なんて云うものはもうスタイルとしてはあまり意味を持っていなくて、例えばそれらはそもそも含有していた要素ごとに分解されてデフォルメされ、こまごまとしたサブジャンルに拡散されていった(それはパンクと呼ばれるものや、ヘヴィ・メタルと呼ばれるものや、もっともっと細分化されたいろんなジャンルを生み出していく)。

もちろんそれはもともと含有していた要素を拡散して薄めていくだけじゃなくて、いろいろなものを取り込んで交雑をくりかえしていく。いちばん表現したいもの、いちばんかっこいいと思えるもの、に向かって。ぼくが中学生ぐらいの時代、ちょうどロックが「死んだ」と云われだして少し経ったころから、ロック、と云うのはそう云う種類の、なんと云うか、音楽的なアティテュードを示すような言葉になっていた。

たとえば、ゼルダはどのあたりにたどり着いたか。

カリブのリズム。でもそれを奏でるゼルダは、まちがいなく「ロックバンド」。ロックのイディオムに乗っていないことこそが、ロック。逆説ではなく。

もちろん、そこいら中にばらばらに散らばったロックの死骸のパーツを集めて、まったき「ロック」を再現しようとする試みは、例えば80年代終盤のガンズ・アンド・ロージズを筆頭にあった。それもロック。そして、例えば90年代ですべてのイディオムを素材と見なして「レディ・メイド」を開き直ってみせたグループもあった。残念ながら(いやもちろんそりゃ嫌いじゃないですけどね)それもロック。

いまも、ロック、あるいはパンクを標榜するバンドはある。じゃあロックは死んではいないのか。

——ばらばら死体の各パーツがイディオムとして再利用されつづけている、と云う意味では、死んではいない、とも云えるのだろう。永遠の命を保ちつづけている、と云ってもいいのかもしれない。
で、重要なのはそのロックのイディオムが依然として魅力的である、と云うこと。逆に、その魅力を提示してくれさえすれば、ロックであるかどうかなんてどうでもいい、とも云えるのであって。

バンドであると云うこと

ロックと云うのは、基本的にバンドのもの。じゃあ、バンドである、と云うのはどう云うことか。

それは、表現の源泉をすべて自分たちのなかから生み出し、完結させてしまえる、と云うこと。曲が借り物であろうが、プロデューサーがべつにいようが、出された音はそのバンドのもの。絶対に。
いや、音楽を生み出すと云うことにおいてそんなことに意味があるのかどうか、と云うと、たぶんあんまりなくて。ただ、バンドのつくる音楽は、根源的な意味においてはつねに「オリジナル」だ。

SCANDAL!

なんでおいらなんかが昨今SCANDALなんかにいかれてなきゃなんないのか自分でよくわからなくて、数週間頭を悩ませたりした。それでもって結局出てきたのが、ここまで書いてきたようなこと。

結局のところ、おいらはこのバンドのことを、かっこいい、と感じてるらしい。

ロックかどうか、なんてどうでもよくて。でも、バンド。音楽をつくる、自覚的な主体。
技術的な水準が気になるひとは、そもそもロックなんか聴いてこなかっただろうし、そこにあるロック的なイディオムの魅力に惹かれることもないんだろう。オーバー・プロデュースが気になって、そこにあるものの本質が耳に入ってこないようなひとは、たぶんNever Mind the Bollocksにかっこよさを見つけることもできないんだろう、なんて思う。どんなかたちで他者の手が関わっていようと、バンドである以上最終的にドロップされた表現は本人たちのもの、と云うことが理解できないひとは、ストーンズの初期なんかは聴いていられない気の毒なひとなんだろうな。

テレキャスターを下げて、生意気に、挑発的に。
「いさましいちびのヴォーカリストHARUNAのたたずまいは、同じギターを構えるプリテンダーズのクリッシー・ハインドをすこしだけ思い出させる(恋をして、子供を産み、そしてそれを育てながらロックンロールしつづける彼女の凛々しさを)。おんなである、それゆえのかっこよさ。

技倆ぎりぎりでの表現。あふれるもの、とどかないものがあるゆえの、プレイヤー本人の刻印が濃厚に押されたエッジィなギター。ギタリストのみがぬけぬけと表現できるけれん味ある粋さを随所に見せながら、そこを裏切るような、例えば、声。
キース・リチャーズやイズィ・ストラドリンが伝えるロック・ギタリストの一典型の系譜に、MAMIはあきらかに連なる(だいたいリアにハムバッカーを搭載したストラトグレッチのホワイト・ファルコンって云う愛機のセレクションのセンスはなんだ)。そこに見いだせる、かっこよさ。

うまいドラマーでも「性急さ」は表現できない。それは、表現に向かうスタンスから生まれてくるもの。
ぼくは、ロック・ドラムなんて云うのは存在しない、みたいに思ったりもしていて。ドラマーはひとりぼっちでも向かうべき場所に向かい、どんなジャンルのなかでもバンドを引きずっていくもの、みたいに考えたりする。ジャズでも、ブルースでも。だったら肝要なのは器用さではなくて、なにがしたいのか、と云うこと。トッパー・ヒードン、スティーヴン・アドラー。そんな奴らに似たやりかたで、RINAのドラムはバンドを駆動する。

そして。
リズム隊に要がひとりいれば、バンドの表現は分解しない。あきらかに音楽家として頭ひとつ抜け出した能力とセンスを持つTOMOMIの、確実さと自在さを兼ね備えたベースが、バンドの表現をひとつにまとめあげる。

かっこいいじゃん、やっぱり。

こんなスタイルでやっていけるのは、いまだけ、なのかもしれないけどね。