Chromeplated Rat

街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

地が透ける

みさこ@素敵ひきよせコーチさんの、美しい言葉でだますと云うエントリを読んだ(どうでもいいけど、アメブロとかそう云うあたりでコーチングだの自己啓発だの代替医療だのスピリチュアルだのに関わるお仕事絡みのブログを運用してるひとは、なんかハンドルネームに自己紹介を含ませたがる傾向があるみたいだなぁ)。

当然と云えばそうなのだけれど、概ねのニセ科学はその語ることが「事実である」(ときには「真実である」)と主張する。なので、それらのニセ科学を援用してなにか言説をなそうとする側も当然、その内容を事実として扱う。そこにある示唆は事実なのであるから、それに基づいて語られることはどのような内容であれ、事実であり、仕方のないことである、と云うのが前提にされる。この前提を置くことが、ときに言説にあたってひとを無防備にする、と云うのがあるようにも思う。

じゃあ

身体の70%が水で出来ている私が

いつも美しい言葉を

自分やまわりの人にかけていたなら

私の身体の お水は

だまされて美しい結晶をつくるのね~

しめしめ

(表示上の装飾を削除しています)

例えばこう云う言説のなかから立ち現れるのは、私の身体の お水美しい結晶をつくらせるためには、自分自身のみならず周囲の他人のことも美しい言葉で騙して恥じない、ひどく下衆な心性を裡に抱えた女性の姿でしかない。もちろんこの方は自分のそう云った内面を人前に晒そうとしてこのエントリを書いたわけではないだろうけれども、それこそ江本勝氏の表面的に美しい言葉に触発されたことが、われ知らず内面の吐露につながってしまった、と云うことになる(すくなくともそれを「事実」だと思わなければ、こんな内容の文章はさすがに書けないはず)。

そう云う意味で、ニセ科学にもとづく価値判断を受け入れた、援用した言説、と云うのは、そのひとの内実を透かしてみることのできるちょっとした試金石、みたいに機能することもある。いやな話だとは思うけどね。