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街や音楽やその他のものについてのあれこれ。

手合い

セラピストでいらっしゃるらしい「とーますのスーパーホリスティックな日々」さん(長いハンドルだな)のたった一本の論文で、、と云うエントリを読んだ。

非常に短いエントリなんだけど、これだけで「他人に対してホメオパシーと云うものの意義を説くひとと云うのがどう云う考え方をするのか」と云うのがよくわかるサンプルになっている。ホメオパシーを取り入れているひと、利用しようかと思っているひとは、充分に留意したほうがいい、と思う。

たった一本の論文で判断し声明を出すなんてことは学術的なことでしょうか?

学術的にみて適切な判断です。
当該の論文は(あちこちで引き合いに出されているけれど)2005年にランセット誌に掲載されたシャンらによる、ホメオパシーの効果を否定する論文(概要はSkeptic's Wiki2005年のThe Lancetの論文参照)。で、これはたしかにたった一本の論文なのだけれど、でもその意義はより大きい。なぜなら、それがメタアナリシスの結果、だから。

このかたは前々日のホメオパシーのエビデンスと云うエントリで、ホメオパシー関連の医学論文を羅列した日本ホメオパシー医学会の発表資料にリンクしている。にも関わらず、上記の論文をたった一本の論文と言い放つ。その意味合いの違いについては口をつぐむ。
いや、通常の論文とメタアナリシスの違いなんて、普通は知ってやしない。ぼくだって以前から知っていたわけじゃない。でも、例えばインターネットに接続できる環境を持っていれば、その違いがどこにあるのか、どうして(効果を肯定するもの、否定するもの含め)あまたあるホメオパシー関連の論文のなかでシャンらの論文がとりわけ重要視されるのか、を知ることができる。シャンらの論文がなぜたった一本の論文として切り捨てることのできないものであるのか、少なくともその根拠は理解することができる(いちばん手短かなものとして引用できるのは、kikulogに寄せられたPseuDoctorさんのコメント)。
たぶん、短いエントリを書くのに要するのとおなじくらいの時間で。

それをたった一本の論文のひとことで切り捨てることができる、と考えること。そしてそれを口にすること。そのことが示すものはいろいろあるだろうけど、基本的には以下のどちらかのスタンスなんだろう、と思う。

  1. 自分が口にすることに対して、その意味を誠実に考えていない。
  2. あるいは、自分の口にすることについて、都合の悪いことは黙っていればわからない、と考えている。

残念ながら、ホメオパシーをめぐる肯定的な言説の大半は、このようなものだ。前者は善意かもしれないけど無責任。で、後者は法律用語で云うと悪意、と云うことになる(こっちに属する連中はだいたい、うちゃさんが往生際の悪い敗者と云うエントリで分析されているような輩)。

だいじなのは。そう云う手合いに、自分や自分の家族(犬猫含む)や友人の健康や命をちょっとでも託そうとすることが、どう云うことか、と云うこと。
ネットのうえで手に入るホメオパシーについて肯定的な言説の大半は、こう云ったデマゴーグによるものだ、と云う現実を踏まえたうえで、それでも最後には判断するのは利用者なのだけれどね(うさぎ林檎さんにコメントでご教示いただいた、ホメオパシーを信じた結果のサンプルリストにここからリンク)。

あと。
ぼくは代替医療全般に同種の問題があるとはけして思わないし(ましてや代替医療がおしなべて否定されるべきだなんて思わないし)「ホリスティック」と云う概念に意義がないとも思わない。なので、こう云う手合いが代替医療を語ったり、ホリスティックを称したりするような状況を放置しておくのは、平和運動を志向する市民活動が陰謀論に席巻されるのとおなじような問題があるんじゃないかなぁ、みたいに思う。

# 正直、自分でもちょっとホメオパシー関連の話題に対する言及には食傷してるんだけど。

# でも、だれかが対抗言論を続けてないと、消費し尽くされて忘れられちゃうからなぁ。まぁもちろん、そのだれかがぼくである必要はいっさいないのだけど。